第120話:「象徴の達成」
風が、頬を打った。
城の屋上。欄干の縁に両手をついて、ゼノリスは眼下を見渡した。領地は一枚の絵のように広がっていた。空は白みがかった青。高さのある場所の風は、地上とは少し違う。冷たく、薄く、どこか澄んでいる。
南の方角に、農地の穂が揺れていた。
風が渡るたびに黄金色の波が走る。数か月前、白く乾いていたあの土の上で。街道が南北に延び、荷車が二台、城下へ向かっている。石畳の上を、揺れずに進む。城下の方向からは声が届いた。市場だろう。言葉は取れない。ただ、声の重なりだけが風に乗って上がってくる。
城壁が、その全てを囲んでいた。修復された石が光を受けて白い面を作っている。ガルムが『誰にも崩させはしませぬ』と言った壁だ。
ゼノリスは目を閉じた。一度だけ、深く息を吸った。
目を開いた。
領地は変わらずそこにあった。
◇◇◇
足音が階段を上がってくる音がした。
規則正しい間隔だった。急いでいるわけではない。しかし迷いもない。ゼノリスは欄干から手を離し、振り返った。
カイロだった。書類を一枚、手に持っている。屋上の入り口に立ち、ゼノリスを確認してから、一歩前に出た。
「ゼノリス様」
声は低く、平らだった。
「食糧自給率が、100%を達成しました」
風が吹いた。欄干の向こうで、農地の穂が揺れた。
ゼノリスはカイロを見た。カイロは書類に目を落としたまま、続けた。
「今期の収穫量と、街道が繋がってから積み上げた備蓄量を合算した数字です。領民全員が、この領地の食料だけで一年を越せます。外からもう買い入れる必要がなくなりました」
短かった。しかし内容の重さは、言葉の短さとは釣り合っていなかった。
ゼノリスは欄干に背を向け、カイロの正面に立った。
両手が、欄干から離れない。指先が石の縁を掴んだまま、力が抜けなかった。
「……ありがとうございます」
声が、わずかに遅れた。
カイロが一瞬だけ顔を上げた。それから書類に視線を戻した。
「農地を豊かにしてくれた者たちの成果です。報告はそちらにも入れています」
ゼノリスは頷いた。指が、ようやく欄干を離れた。
「これが、最初の象徴成果ですね」
カイロは答えなかった。ただ、書類を脇に挟んだ。それが返事だった。
ゼノリスは再び欄干に向き直った。南の方角に、農地が広がっている。穂が揺れていた。あの老農夫が、今日も畝の間にいるだろう。土に指を差し込み、状態を確かめながら、若い農夫に声をかけているはずだ。
「食糧自給という基盤が整いました」
ゼノリスは言った。城下に向けた言葉だった。カイロには聞こえているが、カイロに向けた言葉ではなかった。
風が、また欄干を渡った。
◇◇◇
ノアが屋上に上がってきたのは、カイロの報告が終わってすぐのことだった。
帳面を脇に抱え、もう一方の手に紙を持っている。階段を上がりながら、すでに紙に目を落としていた。屋上に足を踏み入れ、カイロとゼノリスの位置を確認してから、一歩前に出た。
「ゼノ様、続けてよろしいですか」
「どうぞ」
ノアが紙を広げた。
「食糧自給率の達成を受けて、他国の動きを整理しました」
声は静かだった。感情を削ぎ落とした、事実の提示だった。
「各地の商人から、魔王領への注目が増えています」
ノアは少し間を置いて、続けた。
「一つは、荒廃した魔王領がなぜ短期間で再建できたのかという疑問。もう一つは、特産品と物流の整備に対する商業的な関心です」
ゼノリスは欄干に背を向けたまま、ノアを見た。
「脅威としてではなく、興味として見ているということですね?」
「はい、今のところは。ただし教会連合圏は別です」
ノアが紙をめくった。
「勇者軍の偵察部隊が撤退しました。昨日の時点で、領地及び周辺から姿を消しています。報告が教会連合圏に届くのは、早ければ数日以内です」
風が欄干を渡った。城下の方向から、市場の声がかすかに上がってくる。
「報告の内容は?」
「僕には分かりません」
ノアが短く答えた。
「ただ、彼らが見たものは分かります。農地、街道、市場、城壁。活気のある領民。それと――」
ノアが紙から目を上げた。
「組織された軍です。連携訓練を、偵察部隊が観察していた痕跡があります。訓練場の外に足跡が残っていました」
ゼノリスは少しの間、口を閉じた。
カイロが壁際に立っていた。腕を組まず、書類を脇に挟んだまま、何も言わず前を向いていた。
「教会連合圏は、動くと思いますか?」
ゼノリスが問うと、ノアは帳面を開いた。
「動きます」
断言だった。
「豊かになった魔王領は、教会連合圏にとって放置できない存在です。弱体化した魔王領なら無視できる。しかし食糧自給が増加し、物流を整え、軍を組織した魔王領は、別の話になります」
ノアがページに目を落とした。指先が、書き込みの一行をなぞる。
「いつ動くかは分かりません。どう動くかも、まだ読めません。ただ、動く前提で準備を始める必要があります」
ゼノリスは頷いた。
「分かりました」
ノアが帳面を閉じた。カイロが書類を一枚取り出した。二人の動きが、ほぼ同時だった。
「準備の内容は、詰めます」
カイロが言った。ノアが短く頷いた。
それだけだった。二人の間に、余分な言葉はなかった。
◇◇◇
カイロとノアが階段を下りていく足音が、しばらく続いた。それから、静けさが戻った。
ゼノリスは欄干に向き直った。
日が傾いていた。午後の光が領地の上に斜めに差し込み、農地の穂を横から照らしている。黄金色がさらに濃くなり、影が長く伸びていた。街道を行く荷車の影が、石畳の上に細長く落ちている。
城下から声は届かなくなっていた。夕方に近づくにつれ、市場の声が落ち着いていく。それでも人影は動いていた。台を片付ける商人、荷を積み直す御者、路地を歩く領民。それぞれが自分の場所で動いている。
ゼノリスは欄干の縁に両手をついた。
日が傾いていた。午後の光が斜めに差し込み、農地の穂を横から照らしている。黄金色がさらに濃くなり、影が長く伸びていた。
数か月前、ここには何もなかった。荒れた土と、崩れた壁と、疲れた民だけがあった。
今は違う。
――来るなら来るがいい。
声には出さなかった。両手が、欄干の石を握った。
日が傾き続けた。光が領地の上をゆっくりと移動していく。農地の穂が、最後の光を受けて揺れていた。




