第119話:「加速する再建」
穂が、風に鳴っていた。
朝の農地を渡る風は冷たく、老農夫の首筋をかすめていく。だが手は止まらなかった。畝の土に指先を差し込み、手首の力を抜いて、土の中の湿り気を確かめる。
若い農夫が畝の反対側からやってきた。日に焼けた顔に、土のついた袖。息を切らせていた。
「じいさん、ここの列、葉の色が少し薄くないか?」
老農夫は指先を土から引き抜いた。土が指の腹に残る。それを確かめてから、若い農夫の指した列へ目をやった。
葉の端が、ほんのわずか、黄みがかっていた。
「水の流れを見てみろ」
老農夫は畝の脇の溝を指した。水路から引かれた水が、畝と畝の間を流れている。若い農夫が溝を確かめ、しばらくして戻ってきた。
「石が入って詰まってた」
「取ったか?」
「取ったよ」
「なら、夕方には戻る」
それだけ言って、老農夫は次の畝へ向かった。膝が少し鳴ったが気にしなかった。踏む土が、一歩ごとに柔らかく沈む。以前は足が沈まなかった。硬く、乾いていた。
この間まで、ここは枯れた土だった。土は白く乾き、水を求めていた。苗は葉を内側に丸め背を縮めかろうじて立っているだけだった。
今は穂が揺れている。
「じいさん」
若い農夫が後ろから声をかけた。
「ゼノリス様が言ってた話は、本当だったんだな。作物の声が聴こえるって」
老農夫は足を止めなかった。
「お前にも聴こえるようになるさ」
「まだ聴こえないけどね」
「聴こうとしていないだけだ」
穂が揺れた。風が農地を端から端まで通り抜け、草の匂いを連れていった。
◇◇◇
南街道を、荷車が行く。
白髪交じりの石工は、道の端に立ってその車輪の音を聞いていた。荷が重いのだろう、馬が少し踏ん張った。だが車輪は揺れなかった。乾いた、硬い音が石畳の上を端から端まで走り、石工の足の裏を通り抜けていく。石の目を読んで並べたから、圧が全体に散る。だから崩れない。
石工は道の端にしゃがんだ。石畳に手を当て、指の腹で継ぎ目をなぞる。荷車が何度も通った跡があるが、ずれていない。立ち上がり、膝の土を払う。
隣に若い石工が来て、同じように道を見下ろした。
「毎日来るようになりましたね」
「道があれば、人は動く。それだけだ」
荷車が遠ざかっていく。御者が手綱を軽く鳴らした。石工はその背を見送った。
最初に荷車が通った日のことを思い出した。御者が石畳に車輪を乗せた瞬間、石工は息を止めていた。音が返ってきた。硬く、乾いた音だった。沈まなかった。その音を聞いて、石工は初めて手の力を抜いた。
「俺たちが作った道だって、言っていいですか?」
若い石工が言った。石工は少し間を置いた。
「みんなで作った道だ」
「でも、石を読んだのは俺たちですよ」
石工は答えなかった。次の荷車が街道の向こうに見えてきた。道の端から一歩退いて、それを待つ。車輪の音が近づいてくる。揺れない。最初に通った朝から、ずっと同じ音だった。
それが、答えだった。
◇◇◇
市場に、昼の声が重なっていた。
布売りの若い男は、台の端に両肘をついて客を待っていた。正面の通りを人が流れている。子どもの手を引いた女が台の前で足を緩め、老人が隣の台との間で何か言い合い、商人が荷を抱えたまま値段だけ確かめて去っていく。銭の音が、どこかで鳴った。
中年の女が台に近づいた。指先で布の端をつまみ、光に透かした。
「これ、先週もあった布ですか?」
「違いますよ。新しく染めた布です。水が変わりましたからね。前よりずっと、色が冴えているでしょう?」
女が布を傾ける。模様が浮き上がり、また沈む。しばらく見てから、女は顔を上げた。
「きれいね。もらいます」
男は布を折り、紙で包んだ。受け取った女が人の流れに戻っていく。男はその背を一度だけ見た。
隣の台では、工芸品を並べた職人が客と値段の話をしていた。その隣では焼き菓子の匂いが漂っている。向かいの台では薬草が積まれ、香りが風に乗って流れてくる。声が、匂いが、足音が、一つの場所で重なっていた。
男は台の布を一枚、並べ直した。
ゼノリス様に見てもらったのは、もう随分前のことのように感じる。あの時、男はこの布を持っていくことを迷った。染料の配合は家に伝わるものだったが、それが才能だと思ったことはなかった。ただ、他と違う色が出るというだけで、価値があるとは思っていなかった。
ゼノリス様は布を一度だけ見て、言った。
「これは、あなたにしか出せない色です」
それだけだった。説明はなかった。しかし男にはそれで十分だった。
台の前にまた客が来た。男は顔を上げた。
「いらっしゃい」
声が、市場の賑わいに混じった。
◇◇◇
城下の路地に、水の音があった。
上水路の管が石畳の下を走っている。地面の上からは見えない。だが耳を澄ますと、水が流れる低い振動が足の裏に届く。上下水道を管理する技術者の男は路地の角にしゃがみ、石畳に手を当てた。冷たい石の下で、水が動いている。
点検用の小蓋を開けた。湿った空気が上がってきた。管の中を覗き込む。水が流れていた。濁りがない。術式が機能している証拠だった。
男は蓋を閉めた。帳面に一行書き込む。異常なし。
隣の路地でも同じ作業をする。また次の路地へ。城下の水路は枝分かれしていて、点検箇所が多い。朝のうちに回りきれないこともある。それでも毎朝回る。水が止まれば、城下が止まる。そう思っているから、脚が動く。
路地の奥から子どもの声がした。水場で何かをしている。桶を持った女が路地を横切り、水場へ向かった。管の水が桶を満たし、女が桶を持ち上げて戻っていく。その一連を、男は帳面から目を上げて見た。
清らかな水を守る。
声には出さなかった。ただ、帳面を閉じて立ち上がり、次の点検箇所へ向かった。足が、少しだけ速くなった。
◇◇◇
城壁の上は、風が通る。
守護隊員は石畳の上に立ち、城下を見渡していた。遠くに広がる農地。街道を進む荷車。市場から声が届く。高い場所から見ると、全部が一つの場所にあることが分かる。
隣に立つ隊員が、城壁の外に目を向けた。
「何もないな」
「そうだな」
短い言葉が交わされ、また静かになった。
以前の城壁は、北東の角から空が見えていた。石が抜け落ち、風が吹くたびに砂埃が舞った。その穴から外が見えることが、守護隊員には堪えた。守るべき場所に、穴が開いている。それが堪えた。
今は石が積まれ、空が見えない。
隊員は城壁の縁に手を当てた。冷たい石の感触が掌に伝わる。ガルム様が据えた石だ。一番重い石を、自分で抱えてここに収めた。あの背中を見ていた。体の置き方が全てだ、と言っていた。あの一言を、隊員はまだ覚えていた。
城下から笑い声が届いた。子どもの声だった。
隊員は手を離し、また外に目を向けた。何もない。今日も、何もない。それでいい。それが、この場所に立つ意味だった。
◇◇◇
偵察部隊の一人が、枝の陰に身を潜めて目を細めた。
農地が広がっている。穂が揺れている。街道を荷車が行き来する。城壁が光を受けて白く立っている。その上に、人影が見えた。守備兵だ。交代で立っている。
男は息を止めた。
来る前に聞いていた話と、違った。勇者様の支配を外れた魔王領は弱体化し、民は離散し、荒れ地が広がっているはずだ。それを確かめに来た。
だが目の前にあるのは、農地の穂が揺れていた。荷車が街道を行き来していた。城壁の上に、人影があった。
隣にいた別の隊員が、男の袖を引いた。耳元で囁く。
「……報告しなければ」
男は頷いた。視線を農地から外せなかった。もう一度だけ、目に焼き付けるように見た。
穂が風に揺れていた。
それだけだった。それだけが、ここから見えるすべてだった。
――見てはいけないものを、見てしまった。
男は身を翻した。
枝をかわし、下草を踏みながら走る。足音を殺す余裕はなかった。後ろから仲間の足音が続く。木の根が足に引っかかる。それでも止まらなかった。
走りながら、男の頭の中に農地の光景が残っていた。揺れる穂。行き交う荷車。城壁の上の人影。
あれを、報告しなければならない。別動隊も何か掴んでいるかもしれない。
森が深くなった。魔王領の音が遠ざかっていく。風に乗って、かすかに人の声が届いた。それから、消えた。
男は走り続けた。




