第116話:「不動の壁」
城壁の崩れた箇所は、城の中からでも分かった。
北東の角、石が抜け落ちた部分から空が見えている。風が通るたびに、砂埃が舞い上がった。
ノアが城壁の図面を広げたのは、上下水道が完成した翌々日のことだった。
執務室の机に広げられた紙には、城壁全体の輪郭が描かれていた。崩落箇所に赤い印が打たれ、その数が黙って現状を語っていた。
「北東の角が最も深刻です」
ノアが言った。指先が図面の一点を押さえる。
「基礎から傷んでいる。補修では間に合わない箇所が三ヶ所。積み直しが必要です」
「修復の順番は」
「重要度順です。北東から着手し、東面、南面と進めます。西面は最後でも問題ありません」
ノアがもう一枚の紙を重ねた。工程表だった。週単位で区切られ、作業量が並んでいる。
「人員の手配は俺がします」
カイロが口を開いた。書類を脇に抱えたまま、続けた。
「石工と建築家、それぞれに話をつけます。あとセラたちにも」
ゼノリスはその言葉を聞きながら、図面の赤い印を目で追っていた。
北東、東、南。点が散らばっている。城壁だけではない。農地も、街道も、上下水道も、その都度カイロが人を動かしてきた。毎回、話をつけて、段取りを組んで――。
「……一つ、聞いていいですか?」
ゼノリスが顔を上げた。カイロとノアの両方を見た。
「こういった手配を、毎回個別にやっていますね」
「はい」
カイロが短く答えた。
「それを、仕組みとして回せないでしょうか。人を探して、話をつけて、配置する。その流れを、制度として持つ。誰が動いても同じように回るように」
部屋が静かになった。
ノアが図面から目を上げた。
「……復興と評価、ですね」
一言だった。しかし言葉の重さが違った。
ノアはさらに続けた。
「才能を測り、配置し、育てる仕組み。個人の判断に依存しない評価の制度。それが国として機能すれば、毎回一から話をつける必要がなくなる」
「そうです」
ゼノリスが頷いた。
「今はまだ、私が見て、カイロが動いている。でもそれでは、私たちの目が届く範囲でしか回らない。制度があれば、届かない場所でも動き続けるはずです」
カイロが一度だけ目を伏せた。何かを計算するような間だった。
「今すぐ……は難しいです」
「分かっています」
「ただ、骨格は作れます。城壁が落ち着いたら、話をしましょう」
ノアが静かに言った。カイロが頷いた。
それで終わりだった。三人の間で、結論は出なかった。しかし何かが決まった、という感触だけが残った。
◇◇◇
カイロは城下を一回りした。
石工たちのところへ行き、名を告げ、日程と報酬を示した。建築家たちのところでも同じことをした。二ヶ所で話をつけ、城へ戻った。
ゼノリスへの報告は短かった。
「四日後から動けます」
◇◇◇
四日後、北東の城壁の前に人が集まった。
石工が壁に近づいた。崩れた断面の前にしゃがみ、石の切り口に指を当てた。横に滑らせ、別の箇所に当て直す。場所を変えながら、表面を読んでいく。
「積み方に問題があります」
石工が口を開いた。立ち上がり、散らばった石を一つ拾った。
「石には目があります。割れやすい方向がある。その目を揃えて積むと、圧がかかっても全体で受け止められる。ここはそれが出来ていなかったようです」
拾った石を、ゼノリスに向けて掌の上で傾けた。
「この石は使えます。三割は再利用できます」
建築家が隣に立ち、図面を広げた。
「積み方を変えます。石を互い違いに組む方が強固です。縦の目地が一直線に並ぶと、そこが弱点になります」
石工が図を見た。顎を引いた。
「その方が強い」
二人の言葉が止んだ。それで話が決まった。ゼノリスは短く頷き、許可を出した。
◇◇◇
工事が始まった。
騎士団が石材を運んでいた。重い石は台車に乗せ、複数の団員が綱を引いて動かす。傾斜のある場所では止まらない。
「そこ、綱を離さないこと! 足元確認!」
セラが石材の列の中を動き回った。詰まった箇所へ迷わず入り込み、台車の先端に肩を押し当て、全体重をかけて押す。列が動き始めた。
守護隊が受け取り側に並んでいた。石工の指示に従い、石を据えていく。わずかな傾きも見逃さない。「半分右」「もう少し下げろ」と短い声が飛ぶたびに、隊員たちが位置を直した。
ガルムが列の中に入った。
二メートル近い巨軀が、石材の横に立つと同じ高さになった。一番重い石が来たとき、ガルムは隊員を手で制した。自分でその石の端を掴み、石工の指示を聞き、体の向きを変えて正確な位置に収めた。重さに顔色ひとつ変えなかった。
隣の隊員が次の石を構えた。
「見ておけ」
ガルムが言った。前を向いたまま、短く。
「体の置き方が全てだ」
石が一つずつ据えられていく。石工が確認し、建築家が図面と照らし合わせた。段が上がるたびに、崩れていた輪郭が戻っていく。
ゼノリスは工事の全体を少し離れた場所から見ていた。
石工が位置を指示し、騎士団が運び、守護隊が据えた。それぞれの動きが重なり、壁が少しずつ高くなっていった。
◇◇◇
北東の角から始まった工事が、東面を終え、南面の最後の石が据えられたのは、修復が始まって数週間後だった。
石工が位置を確かめ、建築家が図面と照らし合わせた。誰も何も言わない、言葉がいらなかった。ただ、石が収まった。それだけだった。
静けさが戻ってきた。風が吹いた。砂埃が舞うのではなく、ただ城壁に沿って流れた。抜け落ちていた北東の角は、もうそこになかった。石が積まれ、空が見えなくなっていた。西日に照らされた新しい壁面が、城下へ真っ直ぐな影を落としていた。
ゼノリスは城壁を見上げた。
高さがあった。厚みがあった。以前の城壁がどれほど傷んでいたかは、もう確かめようがない。ただ、今ここに立つ壁は、揺るがなかった。
◇◇◇
城壁の完成が知れ渡るのに、時間はかからなかった。
城下の広場に人が集まっていた。老いた男が壁を見上げ、隣の女に何か言った。言葉は聞こえなかった。女が頷いた。子どもが城壁の石に手を当て、すぐに離した。冷たかったのか、ざらついていたのか。それでも離した手をもう一度戻した。
「これなら大丈夫だ」
誰かが言った。
それきり、声はなかった。皆、ただ壁を見ていた。
ゼノリスは広場の端に立っていた。領民たちの顔を見た。恐れていた顔ではなかった。疑っている顔でもなかった。ただ壁を見ていた。壁があることを、確かめていた。
それで十分だった。
◇◇◇
ガルムは城壁の上にいた。
石畳の上に立ち、城下を見渡している。巨軀が風を受けても揺れなかった。眼下に広がる城下の屋根、街道、広場。遠くに農地の緑が見えた。街道を行き来する人の姿があった。市場のあたりで、荷を運ぶ者が動いていた。
ゼノリスが城壁の上に上がり、ガルムの隣に立った。
しばらく、二人とも黙っていた。
「ガルム」
ゼノリスが口を開いた。
「これで、民は安心して眠れます」
ガルムは城下から目を離さなかった。
数拍の間があった。
「……ゼノリス様」
低い声だった。報告をするときの声ではなく、もう少し内側から来る声だった。
「この壁は、誰にも崩させはしませぬ」
宣言でも、報告でもなかった。誓いだった。城下に向かって、風の中に置いた言葉だった。
ゼノリスはガルムの横顔を見た。岩のような輪郭が、城下の光の中にあった。目が細く、しかしその奥に何かをしっかりと見ていた。
ゼノリスは前を向いた。城下を見た。
水が通り、街道が繋がり、壁が立った。人が動き、声が聞こえ、子どもが石に触れた。それだけのことが、積み重なっていた。
その光景を視界に収めながら、ゼノリスはゆっくりと城壁の階段を下りた。
石畳に足がついたとき、カイロが待っていた。
城壁の下、石畳の上に立ち、書類を脇に挟んでいた。ゼノリスが近づくと、一歩前に出た。
「ゼノリス様」
カイロが口を開いた。
「インフラは整いました。農地、街道、上下水道、城壁。しかし市場がまだ閑散としています。商業の活性化も必要です」
ゼノリスはカイロを見た。
「まだ、やることは多いですね」
「はい」
カイロが短く答えた。それだけだった。
風が城壁に沿って流れた。石畳の上を、乾いた砂が転がった。
ゼノリスは城の方へ足を向けた。




