第113話:「大地の声」
執務室の机に、地図が広げられていた。
ゼノリスが椅子に座ると、カイロが正面に立った。手に書類を持っている。いつもと変わらない立ち姿だが、今朝は報告の前に一拍が長かった。
「ゼノリス様。現在の魔王領は、食料が慢性的に不足しています」
声は平らだった。だがその平らさが、内容の重さを際立てていた。
「勇者軍の支配下で農地は荒廃しました。民は飢えています」
ゼノリスは書類を受け取った。数字が並んでいた。収穫量、備蓄量、人口あたりの必要量。どの数字も、足りていなかった。
「ノア」
ゼノリスが呼ぶと、壁際に立っていたノアが机に近づいた。帳面を脇に挟んだまま、地図の農地区画を指先でなぞった。
「食料の自給が最優先です」
ノアが言った。地図から顔を上げないまま続ける。
「民が食べられなければ、何も始まりません。農地の現状を把握してから手を打つ必要があります。今の段階で手を打てる順番は、土質の改良、水の確保、種の配分。この三つです」
「……農地を見に行きましょう」
ゼノリスは立ち上がった。
カイロが書類をまとめ、ノアが地図を折った。二人の動きに無駄がなかった。
◇◇◇
街門を出ると、風が変わった。
街道の端が崩れていた。石畳が根元から浮き上がり、縁が欠けて土に戻っている。その先も、轍の跡が途切れ途切れに続いているだけだった。
石畳の道が途切れ、土の地面が始まる。踏み込むたびに、乾いた土の匂いが上がってきた。雨が少ないのだろう。土が白っぽく乾いていた。手のひらに乗せれば、すぐに指の間からこぼれ落ちそうな質だった。
農地は、城の南に広がっていた。
かつては領地の主要な食料供給地だったのだろう、畝の跡がまだ残っていた。だが作物の緑は薄く、背丈が低かった。葉が内側に丸まっているものもある。水を求めている形だ、とゼノリスは思った。
人影があった。
農夫たちが、畝の間に入って働いていた。腰を落とし、両手で土をすくい、また戻す。その動作が、一人ひとり少しずつ違っていた。土の触り方が、違う。指の入れ方が、違う。それぞれが、自分だけの感覚で土を読んでいた。
ゼノリスが才能を見出した者たちだ。
一人の老農夫が、畝の端にしゃがんでいた。白髪交じりの頭が、土に近い位置にある。両手を地面に押しつけ、指先を深く埋めている。目を閉じたまま、微動だにしない。
ゼノリスは近づいた。
老農夫は顔を上げなかった。ゼノリスの足音が止まっても、まだ土の中に指を埋めていた。
「この土は」
老農夫が言った。目は開いていなかった。
「元気がない」
低い声だった。土に話しかけているような、そういう声だった。
「水も足りない。根が、息できていない」
それから老農夫はゆっくりと顔を上げた。ゼノリスを見ると、一瞬だけ目が止まった。それから立ち上がろうとした。膝が鳴った。
「そのままで構いません」
ゼノリスが言うと、老農夫は少し迷ってから、また土の前に座り直した。
「ゼノリス様」
老農夫が言った。膝に両手を置いて、まっすぐに顔を向けてきた。
「水が……水が必要です」
声に迷いがなかった。訴えではなく、事実の報告だった。この土が何を必要としているか、この老農夫には分かっている。土の声が、この老農夫には聞こえている。
「分かりました」
ゼノリスは答えた。
老農夫が、また土に手を戻した。指先が、乾いた地面の中に静かに沈んでいった。
ゼノリスは立ったまま、その手を見ていた。いつ見出したか、どこで見出したか、その瞬間は覚えていた。この者が土の前に座っている姿は、あの時すでに見えていた。今、それが現実になっている。
後ろで、ノアが帳面を開く音がした。
「水路の設計は、今日中に出せます」
ノアが言った。地図を広げる気配がある。声が低く、淡々としている。
「水源は城の西側の湧き水を使います。距離は問題ないです。勾配を計算すれば、自然流下で農地まで引けます」
カイロが一歩前に出た。
「人員の配置は俺が組みます。掘削員を三名、明日の朝には動かせるようにします」
「頼みます」
ゼノリスは二人に向けて言った。
老農夫は、まだ土の中に指を埋めていた。
◇◇◇
翌朝から、動いた。
カイロが配置した掘削員三名が、夜明けと同時に城の西側へ向かった。湧き水の位置を確認し、勾配を測り、水路の掘削が始まった。ノアは現場に帳面を持ち込み、数字を書き直しながら指示を出していた。立ったまま計算し、地面に膝をついて距離を確かめ、また立ち上がる。その繰り返しだった。
シルヴァが農地に来たのは、昼前だった。
魔術兵団の外套を身につけたまま、荒れた畝の前に立った。農夫たちが少し離れて見ている。シルヴァは畝の前に立ち、農夫たちを見た。
老農夫が畝の土を一掴み取り、手のひらの上で崩しながら、シルヴァに近づいた。指先で押して、粒の大きさを確かめる。
「酸性に傾いとる。通気性も悪い」
老農夫が言った。土に話しかけるような、低い声だった。
シルヴァが頷いた。
「改良します」
シルヴァが片手を畝に向けた。地面が、低く鳴った。攻撃の震えではなく、もっと細かい、内側から動く振動だった。土の粒子が、深いところから動き直している。農夫には見えないところで、土の構造が組み替えられていた。
土の匂いが変わった。乾いていた土の匂いが、少し湿り気を帯びた。それだけだったが、傍で見ていた農夫の一人が息を呑んだ。老農夫が畝に近づき、膝をついて指先を入れた。目を閉じる。長い沈黙があった。
「……やわらかくなった」
老農夫が言った。
シルヴァは答えなかった。次の畝に移動していた。
翌朝には、シルヴァが魔術兵団の団員を連れて戻ってきた。「訓練を兼ねて」とだけ言い、水路の掘削で岩盤に当たった箇所を、団員たちの術式で砕いた。人力だけでは何日もかかる箇所が、一気に進んだ。
水路が完成したのは、数日後だった。
城の西側から引かれた水が、農地の端に掘られた主管を流れ始めた。最初は細い流れだったが、分岐するごとに畝の足元を勢いよく駆けていく。それが畝と畝の間の溝を満たしていくにつれ、乾いていた土が縁からじわじわと色を変え始めた。音が変わった。踏む音が、柔らかくなった。
ゼノリスは水路の端に立って、水が流れていく方向を見ていた。
農夫たちが動いていた。水が届いた畝に手を入れ、土をほぐし、種を入れる者。水の流れを確かめながら溝の方向を微調整する者。それぞれが自分の感覚で動いていた。指示を待っていなかった。
老農夫が、畝の奥にいた。
水が来た土に、両手を押しつけている。昨日と同じ姿勢だった。だが今日は目を開いていた。水が土の中に沈んでいくのを、目で追っていた。
さらに数日が経った。
ゼノリスが農地に行くと、景色が変わっていた。
背丈が伸びていた。内側に丸まっていた葉が、今は外に開いている。色が違う。黄みがかっていた緑が、濃くなっていた。畝の間を歩くと、草の匂いがした。乾いた土の匂いではなく、生きているものの匂いだった。
農夫の一人が、ゼノリスに気づいて駆け寄ってきた。若い女だった。手に土がついたまま、顔が赤くなっていた。
「こんなに育つなんて……」
言いかけて、また畝を見た。それから戻ってきて、もう一度ゼノリスを見た。何を言えばいいか分からないようだった。
老農夫が、畝の端に立っていた。
作物を見ていた。何も言わなかった。ただ、立っていた。その背中が、前より少しだけ伸びているように見えた。
ゼノリスは農夫たちに向き直った。
「これが、あなた方の才能です」
若い農夫が、畝の方をもう一度見た。それから、ゼノリスに向き直って深く頭を下げた。老農夫は振り返らなかった。だが首が、少しだけ動いた。
◇◇◇
城に戻ると、カイロが待っていた。
廊下の端に立ち、ゼノリスが来るのを見て一歩前に出た。報告がある時の立ち方だった。
「食糧自給率は、これで大きく上がります」
カイロが言った。
「ただ、問題が出ました」
一拍置いて続けた。
「作物が増えても、運ぶ街道が寸断されています。南だけではありません。領地全域の主要街道で補修が止まり、崩落したままです。現状、物流が滞っています」
ゼノリスは廊下の窓の外を見た。領地の方向に、街道が延びているはずだった。今は見えない。だが、つながっていないことは分かった。
「……街道の整備も必要ですね」
カイロが頷いた。
廊下に、足音だけが残った。




