第112話:「礎の完成」
数日が経っていた。
城の最上階は、風が通る。石造りの回廊の先、外に張り出した欄干のあたりで、ゼノリスは領地に目を向けていた。夕刻にはまだ早い。空は白みがかった青で、雲が薄く流れている。
眼下に、魔王城の全体が広がっていた。
城壁が見える。城門の両脇に立つ守護隊の姿が、豆粒ほどの大きさで確認できた。交代のタイミングだろうか、二人が入れ替わる動作が静かに行われている。ガルムが塞いだ要所は、報告でも変わりなく機能していると聞いていた。
訓練場の方向から、声が届いた。
距離があるため言葉は聞き取れないが、号令をかける声の質は分かる。
セラだ。短く、切り上げるような発声で号令をかけている。続いて複数の足音が揃う低い音が、風に乗って届いてくる。志願者たちが動いているのだろう。初日とは違う、まとまりのある音だった。
城の東棟に目を移した。
研究室の窓から光が漏れている。昼間から灯りを点けているということは、術式の検証がまだ続いているのだろう。シルヴァの手が止まる時間は、おそらくない。
城の北翼は、ここからは見えない。だが、ノアが地図を広げていることは分かっていた。仮だった兵站線が、昨日確定した。紙の上の一本の線が、正式なものに変わっただけだ。それだけで、地図の意味が変わる。
執務室の方向も、直接は見えない。だが、カイロが今そこにいることは疑わなかった。見えない場所にいる者ほど、静かに動いている。
欄干に手をついたまま、ゼノリスは城の外に目を向けた。
街道沿いに、人の動きがあった。荷を担いだ者、並んで歩く二人連れ、立ち止まって何かを確認している人影。距離が遠いため顔は見えないが、動きに滞りがない。詰まっていない。流れている。
帰還した頃は、そうではなかった。領民たちが動き始めたのは、ゼノリスが一人ずつ才能を見た後からだった。農地の区画を整えるよう動いた者、壊れた水路の補修に取り掛かった者、仕入れの計算を自分で始めた者。それぞれが、自分の場所を見つけたように動いている。ゼノリスが何かを命じたわけではなかった。見出した。それだけだった。
欄干から手を離した。
風が止んでいた。最上階の石回廊に、音がなかった。訓練場の声も、街の動きも、この瞬間だけ遠くなっている。
ゼノリスは領地の方向を見たまま、口を開いた。
「礎は、完成しました」
声は小さかった。誰かに向けたものではなく、ただ口から出た。
夕陽が、西の空から滑り込んできた。石回廊の床に、橙色の光の筋が伸びる。城壁の端が、光を受けて色を変えた。白かった石が、温かみのある色に染まっていく。
ゼノリスがいなくなったこの領地に、何が残ったかを知っている。荒れた土地、疲れ果てた民、出口のない格付けの中で消えていった才能たち。それが今、動いている。
誰も、捨てられるべき者たちではなかった。
ただ、見られていなかっただけだった。
◇◇◇
静かな気配が来たのは、その直後だった。
空気の変化が先に届いた。ゼノリスが振り返ると、石回廊の入口に人影があった。
セレナだった。
絹の目隠しが、夕陽の光を受けて白く光っている。小柄な体格が、回廊の入口に静かに立っていた。どこかへ向かう途中だったのか、あるいは最初からここへ来るつもりだったのか、ゼノリスには分からなかった。
「失礼しました。邪魔をするつもりでは……」
セレナが言った。声は穏やかで、抑揚が均一だった。一歩引こうとする気配があった。
「いいえ」
ゼノリスは首を振った。
「構いません。どうぞ」
セレナが一拍、止まった。それからゆっくりと、欄干の手前まで歩いてきた。目が見えないはずの足取りに、迷いがなかった。石床の段差を、正確に踏んでいた。
二人で、領地の方向を向いた。
しばらく、どちらも口を開かなかった。夕陽が西から差し込み続けている。街の方向から、風に乗って微かな音が届いた。人の声か、物音か、判別できない程度の遠い音だった。
セレナが、少し顔を上げた。
「ゼノリス様」
「はい」
「この国の音は……」
一拍、置いた。
「とても誠実です」
ゼノリスは、セレナの横顔を見た。目隠しの下、表情は読めない。だが声の端に、何かが滲んでいた。確認するような、あるいは確かめ終えたような、そういう静けさだった。
「ありがとうございます、セレナさん」
ゼノリスは言った。それ以上は続けなかった。セレナの言葉に、何かを重ねれば軽くなる。それが分かっていた。
セレナは答えなかった。ただ、もう一度、領地の方向に顔を向けた。
音を聴いているのだろう、とゼノリスは思った。街の音、風の音、この城の中で動いている人たちの音。それらがセレナの耳には届いている。自分には聞こえないものが、この人には聞こえている。
夕陽が、二人の足元に伸びていた。橙色の光が石回廊の床を染め、城壁の端まで届いているように見えた。訓練場の方向も、東棟の研究室の窓も、同じ色に沈んでいく。
風が、遠ざかっていった。二人はそのまま立っていた。音だけが、まだそこにあった。




