第111話:「偵察の影」
朝の光が、執務室の窓から差し込んでいた。
ゼノリスは机に向かっていた。書類の束が左に積まれ、右には昨日ノアが置いていった兵站線の計算書が一枚、まだそのままになっている。ペンを持ったまま、最初の一行から動いていなかった。
城壁の方向が、気になっていた。
昨夜、カイロは『外から何かが近づいています』とだけ言った。それ以上は言わなかった。ゼノリス自身も、それ以上を聞かなかった。廊下を二人で歩きながら、城壁の灯りが揺れなかったことは覚えている。風が吹いても、揺れなかった。
ペンを置いた。
扉を三度、叩く音がした。
「どうぞ」
カイロが入ってきた。扉を閉める音が低く鳴る。革靴の音が一定の間隔で近づいてくる。足音に迷いがない。
机の前に立ったカイロは、報告の前に一拍だけ置いた。それだけで、ゼノリスには内容の重さが分かった。
「勇者軍の偵察部隊が、領地周辺に現れています」
声は低く、平らだった。
ゼノリスは背もたれに身を預けた。椅子が低く鳴った。
「いつからですか」
「昨夜から。城壁の西側、街道沿いを数名で動いています。現時点で接触はなし」
「人数は」
「確認できている範囲で五名。ただし、これは表に出ている数です」
表に出ている数。カイロが言葉を選んでいる時、その言葉の裏には選ばなかった言葉がある。
「分かりました。ノアを呼んでもらえますか」
「すでに向かっています」
カイロが答えた瞬間、廊下に足音がした。扉が三度叩かれる前に、ゼノリスは入るように促した。
◇◇◇
ノアが入ってきた時、脇に帳面を抱え、右手に地図を持っていた。
部屋に入るなり机の端の余白を確認し、地図を広げた。帳面を開く。指先が昨夜の書き込みをなぞる。動作に一切の停滞がなかった。
「見てください」
ノアは地図の西側、街道に沿った一帯を指先でなぞった。
「昨夜から確認されている動線がここ。五名、徒歩。夜間は城壁の西角から約二百メートルの地点で停止していました。現在は少し引いています」
地図の上に、ノアの指先が止まった。
「偵察ではありません」
ゼノリスは目を上げた。
「威嚇です」
ノアが続けた。帳面に目を落としたまま、指先だけが地図の角を押さえている。
「本当の偵察なら、もっと散開します。城壁際に固まって止まるのは、見られることを前提にしている。こちらに『気づいている』と知らせたいんです。魔王領がいまどれほど弱体化しているか――それを外に示すための材料が欲しいんです」
室内が静かになった。
ゼノリスは地図を見た。ノアが指した場所、街道の西、城壁の角。昨夜の灯りが並んでいた位置と重なる。
「報告を上げる相手がいる、ということですね」
「はい。この動き方は末端です。本人たちに判断権はない。見て、記録して、戻る。その先に誰かがいます」
カイロが腕を組んだ。壁際に立ったまま、視線は地図に向いていた。
「なぜ今のタイミングで?」
ゼノリスは地図から顔を上げずに言った。
「五機関の配置が形になったからです」
ノアは帳面のページをめくった。
「動き始めた、という情報が外に漏れた。あるいは、漏れるのを待っていた」
カイロが低く言った。
「情報源の特定は進めています」
短い沈黙があった。
ゼノリスは机の上の計算書に目を落とした。ノアが昨日置いていった仮の兵站線。北の街道に沿って引かれた線が、今は別の意味で見える。
カイロが口を開いた。
「排除しますか?」
声は平らだった。問いというより、選択肢の提示だった。やろうと思えばやれる。そういう意味の静けさだった。
ゼノリスは顔を上げた。
カイロが壁際に立っている。腕は解かれ、両手が自然に下りていた。ノアは地図の端を指先で押さえたまま、こちらを見ていた。帳面のページが、わずかに風で揺れた。
ゼノリスは首を振った。
「いいえ」
間があった。
「見せましょう。この国がどれほど変わるのかを」
カイロが動かなかった。一拍、二拍。目だけが細くなった。反論ではなく、内容を測っている間だった。
ノアは地図から視線を外した。帳面を閉じる。表紙の角を指先で押さえる。それだけだった。口は開かなかった。
ゼノリスは続けた。
「彼らは記録して戻ります。それならば、記録させるものを選べる。今の魔王領が何を持っているか、何が動いているか――それを見て帰らせればいい」
「……偵察を、広報に使う、ということですか」
ノアが言った。声が低かった。問いというより、確認だった。
「そういうことです」
またノアが口を閉じた。今度は少し長かった。指先が帳面の表紙を、一度だけ叩いた。
「理解しました。動線の整理は俺がやる」
カイロが言った。ゼノリスへ向けたものではなく、ノアへ向けていた。
「見せる順番と場所の選定は、ノアと詰める。問題ないか」
「ないです」
ノアが短く返した。
二人の間に言葉が続かなかった。それで十分だった。ゼノリスには、二人がすでに次の手順を組み始めているのが分かった。言葉にする前に動く。それがこの二人だった。
「よろしくお願いします」
ゼノリスが言うと、カイロが短く頷いた。ノアは帳面を脇に抱え直した。
◇◇◇
廊下は静かだった。
執務室の扉を閉めると、足音が石床に低く響いた。昼前の廊下に人の気配はない。窓の外、城壁の方向に目が向いた。
西側の城壁が見えた。
灯りはまだ点いていない。昼の光の中で、城壁の石が白く反射している。ガルムが塞いだ要所が、光の中に静かに並んでいた。
ゼノリスは歩みを止めた。
偵察部隊は今も城壁の外にいる。見ている。記録している。何を報告するかを、すでに決めているかもしれない。弱体化した魔王領。再建の見込みのない荒れ地。そういう言葉を持ち帰るつもりで来ている。
だが。
廊下の奥から、セラの号令が聞こえた。石壁を抜けてくるほどの声だった。それに重なるように、複数の足音が石畳を叩いている。
ゼノリスは窓枠に手をついた。城壁の向こうに、誰かがいる。目が届かない距離で、こちらを見ている。
見ればいい。
この魔王領が今どう動いているか、その目で確かめて帰ればいい。




