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「命乞いした腰抜け」と汚名を着せられた魔王、その瞳で真実を暴く ~「無能」と捨てられた逸材たちを最強へと導き、誠実な国造りを始めます~  作者: ぼん
第三部:地固め

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第110話:「国家の形」

 紙の重さが、両手にある。


 戦術戦略部の一室は、城の北翼にある。窓は細く、朝の光が斜めに差し込む程度だが、それで十分だった。ノアには、広い窓は必要ない。必要なのは机と、帳面と、広げる余地だけだ。


 地図が、机いっぱいに広がっていた。魔王城を中心に、城壁・城門・各区域が描かれている。その上に帳面が重なり、昨夜から書き足した計算と書き直した線が、羊皮紙の余白を埋めていた。


 ノアは椅子の背にもたれ、帳面を手に取った。


 補佐:カイロ。実務統括、書類処理、対外折衝。執務室の隣室を拠点に動く。体力はともかく、情報処理の速度が段違いだ。


 騎士団:セラ。機動・攻勢・前衛指揮。訓練場を拠点に、志願者の即戦力化が始まっている。問題は補給線の設計が粗いことだが、そこは後でカイロと詰める。


 魔術兵団:シルヴァ。術式体系の構築。研究室での作業が中心。速度よりも精度を優先している。それで正しい。


 守護隊:ガルム。城壁・城門・要所への配置完了。昨夜の報告でゼノ様に伝わっている。


 ペンが止まった。


 廊下で、足音がした。


 重い。一歩ごとに、石床が低く鳴る。ノアは帳面から顔を上げず、音だけを聞いた。通路の幅いっぱいに気配がある。


 ガルムだ。


 足音は部屋の前を通り過ぎていった。守護隊の配置確認に向かうのだろう。朝の巡回だ、とノアは思った。


 昨夜の段階で、城壁の要所はすべて塞がれた。ガルムが『完了いたしましたぞ』と言ったなら、それは完了している。ガルムの報告に誤りが入り込む余地は、ノアの計算上では存在しない。


 帳面を閉じた。


 地図を折り、机の端に置く。椅子を引いて立ち上がる。背骨が鳴った。昨夜から座りっぱなしだった。足元に、計算の走り書きをした紙が三枚落ちていた。拾い上げて机に重ねる。


 五機関の配置が、形になっていた。


 ゼノ様が見出した人材を、カイロが実務に落とし、セラが鍛え、シルヴァが術式を与え、ガルムが守る。戦術戦略部はその全体を俯瞰して、齟齬が出る前に手を打つ。設計としては、今のところ正しい。


 ……正しいが、まだ動いていない。


 机の上の地図を、もう一度見た。城壁の外側、北の街道に沿って走る線がある。ノア自身が昨夜引いた仮の兵站線だ。現時点では仮のまま、確定できる情報が足りない。


 今日、ゼノ様に報告する。


 帳面を脇に抱えて、部屋を出た。


◇◇◇


 執務室の扉は、半開きになっていた。


 ノアが廊下から声をかけると、中から応じる声が来た。扉を押して入る。


 ゼノリスは執務机の前に立っていた。椅子は引いたまま、座っていない。机の上には書類が広がっているが、手元にはなかった。窓の外の空を見ていたようだった。ノアが入ると、こちらに向き直った。


「おはようございます、ノア」


「おはようございます、ゼノ様」


 ノアは机の前まで歩き、帳面を開いた。地図と計算書を取り出し、机の端に並べる。


「五機関の配置、まとめてきました」


「聞かせてください」


 ゼノリスが机の前に立つ。椅子には座らない。立ったまま、地図に視線を落とした。


 ノアは地図の上に指を置き、四機関の配置を順に示した。カイロの実務統括、セラの騎士団、シルヴァの魔術兵団、ガルムの守護隊。一機関ごとに地図上の拠点を指し、ゼノリスが頷く。


 手が組まれた。考えている時の姿勢だ、とノアは知っていた。


「四機関を下から支える形で、戦術戦略部が整合確認を担当します。現時点で一つ、懸案があります」


 ゼノリスが顔を上げた。


「北の街道沿いの兵站線が、まだ仮のままです。街道の状態を確認してから確定したい。偵察に一人出したいのですが、許可をいただけますか」


「承知しました。カイロに連絡を取ってください」


「はい」


 ノアは帳面に一行書き加えた。


 室内に静かな時間が流れた。地図の上に朝の光が落ちている。


「ノア」


 ノアは帳面から顔を上げた。


「ありがとう」


 短かった。説明がなかった。ただ、それだけだった。


 ノアは一拍、動かなかった。


 感謝が来ることは計算していなかった。報告の完了に対する確認応答が来るか、あるいは次の指示が来るか、そのどちらかだと思っていた。だから、一拍だけ、返すべき言葉の場所が分からなかった。


「……僕の仕事です」


 そう返した。正確ではないかもしれない、と思ったが、それ以外の言葉が出てこなかった。


 ゼノリスは答えなかった。ただ、少しだけ目を細めた。何かが通り過ぎたような、その間だった。


 ノアは視線を地図に戻した。帳面を閉じる。計算書を揃えて、脇に抱えた。


「今日の午後、カイロさんに兵站線の件を話します。結果が出次第、報告します」


「よろしくお願いします」


 ゼノリスが言い、ノアは軽く頭を下げた。


 扉へ向かいながら、ノアは一度だけ振り返った。


 ゼノリスは机の前に立ち、地図を見ていた。指先が、北の街道線をなぞっている。ノアが昨夜引いた、仮の兵站線だ。


 背を向けて、扉を閉めた。


◇◇◇


 夕の光が、玉座の間に差し込んでいた。


 ゼノリスが入ると、誰かが集合をかけたわけでもないのに、全員がそこにいた。セラの袖口に訓練場の砂埃がついている。シルヴァの指先にインクの染みが残っていた。ガルムの外套は城壁の風を含んでいた。ノアは帳面を脇に抱えたまま、指先が表紙の角を押さえている。カイロは右端に立ち、何も漏らさない目でこちらを見ていた。


 それぞれが、自分の仕事を切り上げてここへ来た。


 ゼノリスは五人の前に立った。一人ずつ、順に見た。セラが目と合った瞬間に背筋を伸ばし、それから少し顎を引いた。シルヴァは正面を向いたまま動かない。ガルムは両手を前で組み、目を細めていた。ノアは視線をゼノリスに向けながら、指先だけが帳面の角を繰り返し押さえていた。カイロは、ただ待っていた。


 石床に、夕の光が伸びていた。


「今日、ノアから報告を受けました」


 ゼノリスは口を開いた。


「五機関が、形になっています」


 五人が、わずかに動いた。顔が向き直る。受け取る姿勢になる。


「あなた方がいてくれて、本当に良かった」


 声が、玉座の間の奥行きに溶けていった。


 ゼノリスはそれだけ言って、止まった。続けなかった。言葉を重ねることが、この間を薄めると分かっていた。


 セラが先に動いた。


 石床に膝をついた音だった。続いて、もっと小さな音。シルヴァだった。それからしばらく間があって、重く低い音が玉座の間に響いた。ガルムが沈んでいくのに、時間がかかった。


 気づいた時には、五人全員が石床に膝をついていた。


 夕の光が、五人の輪郭を縁取っていた。それぞれの仕事の痕跡が、まだそこにあった。砂埃も、インクの染みも、城壁の風の匂いも、抱えたままの帳面も。


 誰も顔を上げなかった。


 ゼノリスは何も言わなかった。言葉を探したが、見つからなかった。ただ、五人が石床に膝をついているという事実だけがあった。


 やがて、口を開いた。


「共に、この国を作りましょう」


 五人が応えた。声が重なって来た。一人ずつではなく、同じ拍に落ちた。それぞれの声の質は違ったが、言葉は一つだった。


「はい」


 玉座の間の静寂が、深くなった。


◇◇◇


 廊下に出ると、石床の冷気が足元から上がってきた。


 夕の光は窓の外に残っているが、廊下の奥は早くも暗みを帯びていた。玉座の間の扉が閉まる音が、後ろで低く鳴った。


 ゼノリスが数歩進んだところで、気配が追いついた。


 カイロだった。


 音がなかった。気配だけが先に来て、気づいた時には隣に立っていた。前を向いたまま、歩調を合わせている。


 廊下を並んで歩いた。しばらく、どちらも口を開かなかった。窓の向こうに城壁の灯りが見えた。守護隊が点けた灯りが、城壁の要所に並んでいる。


「ゼノリス様」


 カイロが言った。声は低く、短かった。前を向いたままだった。


「外から何かが、近づいています」


 ゼノリスは歩みを止めなかった。


「分かりました」


 それだけ答えた。


 カイロも止まらなかった。二人は廊下を歩き続けた。窓の外、城壁の灯りが並んでいた。風が吹いても、揺れなかった。



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