第109話:「守護隊の配置」
石の冷たさが、足の裏から上がってくる。
夜明け前の城壁は、まだ暗かった。東の空が白みはじめているが、光はまだ水平線の下にある。ガルムは城壁の上に立ち、領地を見渡していた。
北側。荒れた街道が、霧の中に沈んでいる。人の往来が戻るには、まだ時間がかかる。
東側。荒れ地が広がっている。
南側。城門への道。石畳が敷かれた正面の通路。ここが最初に守るべき場所だ。
西側。城壁の端まで視線を走らせる。死角になる箇所が二か所ある。後で隊員を置く。
風が吹いた。石の表面を撫でるような、低く乾いた風だ。ガルムは外套の前を合わせず、そのまま受けた。冷気が首筋を通り抜けていく。
守るべきものが、この目に見える。それで、十分だった。
◇◇◇
城壁下の広場に、守護隊の隊員たちが集まったのは、夜が明けてすぐのことだった。
十八人。年齢も種族もばらばらだ。ゼノリス様が見出した者たちが中心だが、志願してきた者も数人いる。全員の顔に、緊張が貼りついていた。
ガルムは広場の中央に立ち、全員を一度だけ見渡した。
左端の男は足が安定している。重心が低く、揺れない。
その隣の女性は目の動きが速い。危険を先に察知する型だ。
後列の右端に立つ、がっしりした体格の男。構えこそとっていないが、足の位置が自然に安定している。ガルムが正面に立った瞬間から、目線がずれていない。
一人ずつ、ひと目でわかることがある。名前を覚えるよりも先に、身体が語る。
「見ておけ」
一言だけ言い、ガルムは構えをとった。
足を肩幅より少し広く開く。重心を下げ、膝をわずかに曲げる。左腕を前に出し、右腕はやや引いた位置に構える。実際の盾はない。空のままの左腕だが、そこには確かな圧力がある。全身の重さが、前脚の踵に乗っている。
受ける体勢だ。どこから来ても、崩れない。
広場が静まった。隊員たちが、息をひそめて見ていた。
ガルムは構えを解かずに、十秒ほど保った。それから、ゆっくり腕を下ろした。
「おぬし、前に出てみろ」
後列の右端の男を指した。男が前に出る。
「構えてみろ」
言われた通りに構える。足の開き、重心の位置、左腕の角度。手本を一度見ただけで、ほぼ正しく再現していた。ただ、左腕が数度、外に開きすぎている。
ガルムは男の左腕に歩み寄り、無言で角度を押さえた。手のひらで包むように、正しい位置に戻す。
「そこだ」
男が頷いた。目に迷いがない。
「おぬし、名は」
「バルカです」
「今日からおぬしは副隊長だ。防衛を任せる」
バルカが一瞬、目を見開いた。それから短く返した。
「承知しました」
ガルムは後ろへ下がり、全員を向いた。
「わしら守護隊の仕事は、二つある。城を守ること。民を守ること。どちらが欠けても意味がない。それだけは、胸に刻んでおけ」
説明は、それで終わりだった。
◇◇◇
訓練は昼前まで続いた。
構えの反復。重心の移動。一人ずつ前に出て立つ。ガルムは言葉より先に動く。正しければ何も言わない。違えば、手を添えて直す。それだけの繰り返しだ。
訓練が始まってしばらく経った頃、ガルムは広場の端に目を止めた。
隊員の一人が、別の者の呼吸の乱れに気づき、さりげなく位置をずらして陰を作っていた。戦力を見ているのではない。状態を見ている。細身の女だった。
訓練が一区切りついたとき、ガルムはその女の前に立った。女が顔を上げる。
「名は」
「ミレイナです」
「さっき、隣の者に陰を作っておったな」
ミレイナの目が、わずかに揺れた。見られていたとは思っていなかった、という顔だった。
「副隊長だ。隊員の状態を見る目は、おぬしが一番確かだった。救護を任せる」
ミレイナは一度だけ瞬きをして、静かに頭を下げた。
「承知しました」
訓練の終わりに、バルカが動いて水を配り始めた。ミレイナがすぐ続く。他の隊員たちも、命じられる前に動き出した。
休憩の間、隊員たちは思い思いに腰を下ろしていた。何人かが小声で話している。笑い声が起きた。緊張が少し解けている。
ガルムは壁に背を預け、全員の様子を遠くから見ていた。
しばらくすると、足音が近づいた。
隊員の一人だった。訓練中、後列にいた若い男だ。体格は悪くないが、構えるたびに肩に力が入りすぎていた。
男は少し迷うような間を置いてから、口を開いた。
「……隊長。一つ、聞いてもいいですか」
「言ってみろ」
「俺みたいな……ゼノリス様に才能があると言われるまで、ずっと無能だと思っていたようなやつが。本当に、誰かを守れるんでしょうか」
ガルムは答えなかった。
すぐに言葉を返さなかったのは、軽く扱いたくなかったからだ。この問いには、重さがある。
やがてガルムは壁から背を離し、広場の中央へ歩いた。男がついてくる。
ガルムは構えをとった。午前中と同じ構えだ。足を開き、重心を落とし、左腕を前に出す。
そのまま動かなかった。
「おぬしは今朝、わしの構えを見た。どう見えた?」
男が少し考えてから答えた。
「……でかい、と思いました。体格じゃなくて、なんか……壁みたいで」
「そうだ」
ガルムは構えを解き、男を見た。
「やってみろ」
男が構える。肩に力が入っている。ガルムは無言で近づき、両肩を手で押さえた。力を抜かせる。重心が下がる。
「そのまま、前を見ろ」
男が前を向いた。構えが、朝より安定していた。
ガルムは一歩引いて、男の構えを見た。
「守れるかどうかは、やってみなければわからん。だがな」
一度、言葉を切った。
「お前は守れる。ゼノリス様が太鼓判を押した。疑うな」
それだけ言った。それ以上は続けなかった。
男がしばらく黙っていた。やがて、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
ガルムは頷いた。
午後の訓練を再開した。
◇◇◇
城壁の要所に、守護隊の灯りが並んでいた。北の街道の角。城門の左右。西側の死角だった箇所。朝にガルムが目を止めた場所に、一つずつ光が灯っている。
ガルムは執務室の扉を叩いた。
「ガルムであります。ゼノリス様、報告がございます」
「どうぞ」
扉を開けた。ゼノリスは執務机の前に座り、書類に目を通していた。ガルムが入ると、顔を上げた。
ガルムは部屋の中央に立ち、ゼノリス様を見た。
「守護隊の配置、完了いたしましたぞ。副隊長も二名据えました。防衛はバルカに、救護はミレイナに。城壁の要所、それから朝から気になっておった死角の箇所も……すべて塞いであります」
ゼノリスが頷いた。
「ご苦労様でした、ガルム。隊員たちの様子は?」
「問題ありませぬ。皆、よう動いておりました」
短い沈黙があった。ゼノリスが書類を机に置き、ガルムを見た。
「一日で、よく形にしました」
ガルムは首を横に振った。
「形にしたのは隊員たちでございます。わしはただ……背中を見せただけのこと」
ゼノリスが少し目を細めた。何か言いかけて、やめた。その代わり、静かに口にした。
「あなたが守護隊長で、よかった」
ガルムは答えなかった。
――この国は、誰にも渡さぬ。
そう思ったが、言葉にはしなかった。
一礼して、扉を閉めた。
廊下に出ると、城壁の灯りが窓の向こうに見えた。風が吹いても、揺れなかった。




