第66話「鳥のさえずり、滝の音」
「あ、もうちょっと上。少し右。あー、そこそこ」
店の更衣室内にて。カリンはアオイに背中の湿布貼りを頼んでいた。
「あ痛たたた。もう全身筋肉痛で仕方ないわ……」
「あはは……。お疲れ、カリンちゃん」
骨折り損のくたびれ儲けだったテニス大会から一夜明け、カリンは全身筋肉痛を抱えた状態で出社する羽目になっていた。
「今朝起きて自分でもびっくりしたわ……。まさかこんなにも全身筋肉痛になるだなんて……」
「もう歳だね」
「アンタも同い年でしょうが」
茶々を入れてきたノアに反論するカリン。しかし、その足取りは生まれたての子鹿のようだ。
「これじゃどうしようもないな……。営業止めて、日帰り温泉にでも行くか? ちょうどこの前、良さげなところ見つかったしな」
そんな子鹿っぷりを見ていた店長から一言。
「いいわね。ぜひとも連れて行ってほしいわ……」
こうして店員三人と子鹿一匹を乗せた車が、山奥の温泉へと向かって出発した。
***
俺の名はユーリ=ハサマール。かつては勇者として冒険の旅をしていたこともあったが、今はこの寂れた宿屋で働いている。
あの日、突然現れたハンマーババアから逃げおおせるため、宛てもなく走り続けていると、気付けば人っ子一人いないような山の中まで来てしまっていた。幸いすでに追っては来ていないようだったが、何の備えもなく放り出される格好になってしまった俺は、行き倒れ寸前だった。
行き先も分からずただただ彷徨い歩いていると、奇跡的にこの宿屋が見つかった。そよ風一つで倒れそうなボロ家っぷりだが、野宿よりはマシだ。
さっそく中に入ろうとしたが、同時にとある事実に気づいてしまう。そう、俺いま一円も持ってねぇ……。
しかし、曲がりなりにも宿にありつけると思ってしまった矢先だ。今更マインドを野宿に戻すのは至難の技……。
俺は恥を偲んで、受付のオバサンに泊めてくれないかと頼みこむことにした。
「時給50円で働くんなら、泊めてやるよ」
するとオバサンは、そう快諾してくれた。
「そこでなら寝ていい」と使わせてくれた便所の床と、「これでも食いな」と出してくれた魚の骨のありがたみは、今でも忘れられない。
今日も、便所に差し込む朝の日差しで目が覚める。鳥のさえずりと、勝手に流れる滝の音が心地よい。山の爽やかな空気と、こもったアンモニアの香りを大きく吸って伸びを一つ。
さあ、今日も仕事の時間だ。まずはいつものように掃除から。
果たして掃除する意味があるのか疑問な程にはボロボロの床を、キレイにしてるのか汚してるか分からない程には真っ黒なモップで磨いていく。
オバサンも「こういうのは一応ちゃんとやってますよっていう姿勢だけ見せとくのが大事なんだよ。キレイになったかなんてどうでもいいのさ」って言っていたし、これでよいのだろう。




