第48話「そのキャンプ場には前歯が埋まっている」
クッカーに置かれた鍋からは、食欲を掻き立てるような香りが漂う。
何とも形容のし難い独特な香り。それでいて家庭料理の代表格とでも言うべき、どこか懐かしささえも覚えるような香りが、鍋の中の茶色の液体からは発せられていた。
大騒ぎ続きだった初日から一夜明け、清々しい空気の朝。カリンはのんびりとカレーの準備をしていた。
傍らで火にかけていた飯盒のご飯も白く艷やかに炊き上がっており、もういつでも食べられるといった塩梅だ。
その美味しそうな香りに触発されてか否か、周りの他のグループたちも続々と食事の支度に取り掛かっている。
「もうそろそろいいかしらね」
使い捨ての紙製カレー皿に、炊き上がったご飯で山を作り、その傍らにカレールーを回しかけていく。
隣では昨日の男女グループも朝食の準備を終えたようだ。流石に朝から酒は呑んでいないみたいで、昨日の大騒ぎよりは幾分大人しい。
そんな彼らを尻目に一人、カレーを口へと運ぶ。正直何の変哲もない、どこででも食べられる市販のカレールーの味だ。だがそれがいい。「こういうのでいいんだよ。こういうので」というやつだ。
大好物のカレーを頬張りながら、一人静かに幸福感に浸るカリン。
「ねぇ、キミ一人? 俺達と遊ばねぇ?」
そこに水を差すかのように、声をかけてくる男が一人。隣のグループの一員だろうか? 昨日の三人組の中にはいなかった顔だが。
「いや、結構です」
幸せのひとときを邪魔され、不機嫌に応えてやるカリン。
「釣れないこと言うなよぉー」
それでもなお、男が食い下がろうとした、その時だった。
「馬鹿野郎!」
慌てた様子で猛ダッシュしてきた一人の男が、勢いそのままに、ナンパしてきた男へと強烈な右ストレートをお見舞いした。
予想外の不意討ちをくらい、5メートルは吹き飛んだであろうナンパ男。訳も分からず左の頬をさすっている。
コイツは確か三人組の中の……ガウェーインとか呼ばれてた、一番ガタイのいい男……だったか? あやふやな記憶を何とか引っ張り上げる。
「このお方をどなたと心得る、この命知らず!? 『劫火のカリン』様なるぞ、この罰当たりめ!?」
何か知らぬ間に神格化されている……。
「え、何て……? お前そんなキャラだっけ……?」
何が起きているのか全く理解の追いつかない様子のナンパ男。カリン自身も訳が分からないので、その気持ちは大いに分かる。
「とにかく土下座だ、土下座! 早くしないと焼き払われるぞ!? カリン様、この度は誠にごめんなさいでしたあぁぁぁ!」
「痛っ! ちょ、分かった!? 痛い痛い! 分かったから、頭押さえつけるのやめ……」
ガウェーインは自らも土下座して謝り倒しながらも、起用にナンパ男の後頭部を掴み、地面に叩きつけて無理矢理土下座させている。カリンの足元には前歯が一本転がってきていた。
「いや、別に気にしてないから……。それくらいにしてあげて……」
彼もまだ二十代だろうに、このままでは総入れ歯になってしまいそうだ。
「だそうだ!? カリン様が寛大で助かったな!? オラッ! 帰るぞ!」
完全に伸びてしまい自分で歩けなくなったナンパ男を引きずり、去っていくガウェーイン。間違いなく、今の状況は彼にとって「助かって」はいないと思う。いや、別にカリンはなにもしてないのだが……。
「はあ……」
日頃から変な奴らの相手ばかりで疲れた心を、大自然に癒してもらいに来たはずだったのに、結局ここでも変な奴らの相手をする羽目になってしまった……。
足元に転がっている前歯を、適当に土の中に埋めながら溜息をつく。
「さて、そろそろ片付けて帰らないとね……」
重い腰を上げ、カリンは片付けに取り掛かろうとする。
その刹那、唐突に一つの疑問が脳裏をよぎった。
「あれ? 私アイツらに名前教えたかしら……?」




