ウィリアムとクーパー靭帯・5
窓に駆け寄り、周囲を見回すと地面に少し黒が深い場所があった。目を凝らせば、それは足跡のようだ。
飛び降りた勢いか何かで強く土をえぐったのだろう。急いで外に出る。姿勢を低くして地面を舐めるように見れば、その場所から続く足跡はすぐに見つかった。
すべり止めのためのものだろう靴裏の筋が細かく、一定の模様を作っている。
――普通の木靴ではあんな筋はつかない。
葉月の靴に違いない。
足跡の先を追う。数歩先で、それは途切れていた。両足を揃えている。
その跡の側に、ウィリアムは立ってみた。
普段ならもっと遠くまで見通せるはずの視界は低く、思っていたよりも遠くを見ることができない。
もどかしさに頭上を見た。
月の光がいっそ苦しいほどに照らしている。
その月面に、一点の、くもりがあった。
ウィリアムの髪が、全身の毛が、ぞわりと逆立つ。
あれは、翼だ。
竜の、翼だ。
それはみるみるうちに近づいて、今やシルエットがはっきりと見えるほどになった。
尻尾のない竜の背に、人がまたがっている。
「ガンゲツ」
自分の声が、思っていたよりも乾いていたことに気がついて、ウィリアムは苦々しさを感じた。
ついさっき考えていたばかりではないか。あの男が大人しく帰ったとは思えない、と。
「やはり、生きていたか。ウィリアム」
竜の炎で焼かれたはずの女が生きている。
その事実に何ら驚く風情なく、ガンゲツの声は寧ろ楽しそうですらあった。
彼はその腕に抱えたものを、こちらに見えるように掲げてくる。
葉月。
意識はないようだ。
ぐったりとした様子で、苦しげに呻いている。
「こいつを離せ、はナシだ。だが、潰れたトマトが欲しいなら、止めん」
ウィリアムが何かを言うより前に、ガンゲツが釘を刺した。
ゆらりと葉月の足が揺れる。放り投げるような仕草は、牽制なのがわかっていても肝が冷える。
あの男の言うとおりだ。竜はいまだ、地面から高く離れたところで羽ばたいている。
意識があって自分から飛び降りるならともかく――それでも大怪我は避けられないだろう高さで。
そんな場所から放り投げられたら、葉月はひとたまりもない。
卑怯と罵りたくなる言葉を飲み込んで、ウィリアムは相手の出方を待つ。
圧倒的に優位なのは、向こうのほうだ。
それを理解しているのだろう。ガンゲツはニイと笑うと、そのまま言葉を続ける。
「単刀直入に言う。魔剣をよこせ」
何も言えなかった。
魔剣、とガンゲツが呼ぶ物に、心当たりはひとつしかない。
女王の剣。
物理的貧乏くじのようなそれに、思わず手を添える。
意図が伝わったことに満足したのか、ガンゲツは頷いた。
「それを渡すなら、この女を返そう。
別にいらないならいらないで、構わん。どうせお前たちの国の新しい女王も、こっちの手にある」
「……何?」
「大げさな行軍だったが、こいつの炎で騎兵の三人も燃やしてやったら、散り散りになった」
ウィリアムが怪訝そうな顔をしたのをどう思ったのか、楽しげに続けるガンゲツ。
何のことを言われているのか、ウィリアムにはまったくわからなかった。
――新しい女王? それは私のことではないのか?
思わず問いただそうとした時、後ろから手が伸びてきてウィリアムの肩を掴んだ。
「女王お披露目の列を襲ったのは、やはりお前か」
「そうだ」
アデルバートだ。
酔いのせいで目線がいまいち定まっていないが、意識はしっかりしているらしい。
小さな声でウィリアムに「黙っていろ」と指示し、アデルバートはガンゲツへと向かって声を張り上げた。
「竜騎兵が、そうたくさんいてたまるか。……新女王は無事だろうな」
「無事だと思うか?」
「……殺してはいないんだろ。そうじゃなきゃ交渉の意味が無い」
「よくわかっているな」
何を言っているのか、ウィリアムには最初、よくわからなかった。
だが、よく思い返してみれば――そうだ、イズギタに行く前、ジリアン女王はこう言っていたではないか。
『多人数の護衛をつけたら、そこに新女王がいるって宣伝しているようなものでしょう?
囮としてそういう隊も出すけど、あなたたちには極小人数で身軽に動いてもらいたいの』
その隊を、ガンゲツが襲撃したということか。
囮役となった誰かを、その隊の護衛を殺し、さらったということなのか。
それを理解した途端に、ウィリアムはふつふつと怒りが湧いてきたのを感じた。
アデルバートとガンゲツがいまだ会話している声ももう、耳に入っていない。
剣を抜いた。
強い光が周囲を包む。
「私と戦え、ガンゲツ! その人たちを開放しろ!」
ぎょっとした顔のアデルバートが何かを叫んでいる。だが、頭に血が上ったウィリアムにはまるで聞こえなかった。憎い、ガンゲツのことしか見えていなかった。
ガンゲツはその顔を、心の底から楽しげに、悪辣さを感じるほどに歪めた。
「その言葉が聞きたかった。
――明日の昼、太陽が一番高くなる時間に、町の外に出ろ」
いうなり、ガンゲツは竜の手綱を引く。あっという間にその姿が小さくなっていくのを見届けた後、ウィリアムの後頭部が思いっきりはたかれた。
「あたっ」
「この、阿呆が!」
アデルバートだ。
「お前、自分が何言ったのかわかってるのか?
……女王はお前なんだぞ。さっき一番目指すべきだったのは、こっちに価値がないと思わせて葉月ちゃんを返してもらって、囮だけで満足してもらうことだったろうが!」
低く、小さい声ではあるが、その語句に怒りだけははっきりと現れていた。
「囮……ですか。私の代わりに、その人が犠牲になればいいと?」
「決まってるだろうが。何のための囮だ」
「だいたい、どうしてあなたが知ってるんですか。
囮の隊についてですよ。ずっと私達と一緒に行動していたでしょう」
苛ついた表情を隠すことなく、アデルバートはひとつの水晶球を懐から出してみせた。
ひとつ、というには語弊があったかもしれない。それは見事な半球だった。
「通信球だ。王宮にこれの半分がある」
話に聞いたことはあった。幹部将校などが有事の際に持つことを許されるものだ、と。
度々アデルバートが姿を消していたのは、これで連絡を取るためだったのだろうか。
不意に、ウィリアムの頭のなかでつながるものがあった。
「……あなたは、知ってたんですね。
囮の隊が襲われたことも、偽女王がさらわれたことも。
……ひとつ、お聞きしていいですか。偽女王役にあたったのは、いったい誰です」
聞いたウィリアムよりも聞かれたアデルバートの方が、よほど落ち着いていた。
「酒場の女給の、リタだよ」
天を仰ぎ、眼を閉じて、ウィリアムは叫びたくなるのをこらえた。
「……全部わかっていたんですね――?」
「デニスの服屋に、リタなんて子はいない」
アデルバートは酒を飲む前と同じことを口にしたが、ウィリアムにはまるで違う意味に聞こえた。
「葉月さんがあんなに気にしていたのに」
「報告はすると言ったはずだ」
「それを伝えていたら! あの子が窓から外に出るなんてこと、しなかったかもしれないのに!」
「……そこは、こっちの判断ミスだ」
葉月の足跡を示して声を荒らげたウィリアムに、アデルバートは意外にもすんなりと非を認めた。
「まさかあの、東国の男がもう追いつくとも思っていなかった。
竜の移動速度は凄まじいと聞いていたが……囮隊はイズギタとは正反対の方向に出たんだ。いくらこっちが目立つ街に来たからといって、そうすぐに見つかるとは、考えてもいなかった」
ウィリアムは唇を噛む。
こうして色々と言い重ねてアデルバートを問い詰める事ができても、何の意味もないことはウィリアム自身、わかっているのだ。
それでも、これだけはどうしても聞きたかった。
「護衛は、何人死んだんですか」
「――三人、下級近衛が死んだ。あとは兵が四人、大怪我をしたようだ」
上げられた名前に聞き覚えはなかったが、ウィリアムは元同僚のために短く黙祷した。
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