99人目の女王・1
それは数日を遡る。
汲み上げた水は腐臭がして、飲めたものではなさそうだった。
ウィリアムは空を見上げる。
昼間だというのにどんよりとした雲が覆い、陽光など拝めそうになく、その雲を払う風も吹きそうにない。
この国を――いや、世界を、異変が襲ってからもう一月になろうとしていた。
突然、不安げな声で唸り始めた馬の首をなでてやりながらその警戒の先を見て、それに気がつくと手桶を放り投げた。肩にひっかけていた剣を構える。木剣などではなく、鍛冶師に任せ、砥を済ませた代物だ。
淀んだ川を隔てた向こう岸には、泡を吹きながら唸る狼豚がいた。この異変に気をやられてしまったのだろう。異形化した獣に特有の、黒い靄のような瘴気を漂わせてこちらの様子をうかがっている。
川は浅い。
狼豚であろうと、水を蹴立てて襲いかかってくることは容易に見えた。
剣を構え、すうと息を吸い、止める。
男の止まった動きを隙と見たか、狼豚は川面を荒らして突進した。まっすぐぶつかれば命はないだろうと思われたが、ウィリアムは僅かに横に重心を逸らしてそれをかわし、狼豚の顔に剣を当てる。割れた額から血を流し、勢いのままに数歩行き過ぎてから倒れた狼豚を見て剣を収め、ため息を吐いた。
異変が続けば、異形の数も増える。それは道理ではあったが、ウィリアムはそれに対し面倒な、と感じただけだった。
こういった異変の起こりに対し、何の疑問も抱いていなかった。
ああ、そういう時期が来たのだな、と思っただけのことである。
それは彼に限らない。
この世にある語り継ぐことのできる者達全てに言えることだった。
以前の異変は、三十年前だったと聞く。
まだ彼は生まれていなかったが、その頃にあったことは母から何度も聞かされた。
母も、その前の異変は彼女の母から聞いたと言っていた。
およそ三十年を周期として、この世を覆う『異変』。
これを機とばかりに国境に攻め込もうとする他国への牽制のために駆り出されることは、前々から予想のついていたことであったから、そのための準備も怠りなくしてきたのだ。
しかし。
「ひとつきはいかなこと、長すぎますね……」
結局自分の荷から水袋を取り出して乾きを癒し、ウィリアムはぽつりと呟く。
七日や十日程度で済んだはずが、慣例を逸して終わりの見えない異変。
疲弊した農夫たちをなだめに回っていた身に届けられた書状を思い出し、ウィリアムは眉をひそめた。
至急戻られたし。
名と要件の他に何もない文であったが、それを最重要としたのは令を発したのが女王であるからに他ならない。
ウィリアムは近衛兵である。それでも、衛兵でしかない。
女王の身辺警衛を任される上級近衛だけでも二百はいるというのに、一介の兵、それも後ろ盾もなくただ腕のみで成り上がった程度の下級兵だ。
女王に名を憶えられるほどの武勲を挙げたこともなく、こうして人手の足りない辺境警護に駆りだされたりする程度の身でしかない。上役が訝しんだのも当然のことだった。
それでも令は令として現場を離脱し、こうして馬一頭と身一つで王宮へと向かわされている途中なのである。
濁り、流れのない川面を鏡にし、髭と髪に無造作にナイフを当てて男は簡素ながらも身支度を整える。
どこもかしこも水が腐ってしまっているのに、水袋の中はさっき飲んだ時に空にしてしまった。
もっと浴びるように飲みたいと思ったが、それは贅沢というものだろう。
少し急げば今日の昼日中には王宮に着けるだろうし、せめて水くらいは分けてもらえればいいのだが、と思いながらアブミに足をかけたところで馬が突然身をひねり、ウィリアムは振り落とされた。
「痛っ!」
涙目で馬を見ると、ずいぶんと不満気な顔を浮かべている。
理由に思い当たって、ウィリアムははあ、と肩を落とした。
「……はいはい、偉かったよ。ありがとう教えてくれて、助かった」
そう言いながら首筋を軽く叩いてやると、馬が満足そうに顔を振って鼻息を吐く。
鼻筋と足が白い鹿毛の、もう五年ほどの付き合いになる馬だ。
気心はしれている、と言えば聞こえはいいが。その実、ウィリアムのことを飼い主や主人と思わず、自分と同格の友人と見ている節がある。もう一度ため息を吐いてウィリアムは、今度こそ鞍に乗る。
馬上から王宮の方へと目を向けたところで、道は沢から森へと向かっている。木の枯れゆくさましか見えない。
獣の怯える気配に目を伏せ、ウィリアムは馬を歩ませ始めた。
「夜になる前に戻ろう。お前ももう一晩野宿は嫌だろう?」
少しでも気を取り直そうと呟くも、落とされた拍子に擦りむいたのか顎が少し痛く、気を取られているうちに頬の内の肉を噛んだ。
どうにも格好がつかなかった。
水曜日なので。
次は金曜日(時間不定)




