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あの日 ー②ー〈リアンの記憶〉

これは、いつの話だろう。

 「その日」は突然やってくる。


 恐ろしい地響きがしたかと思うと、姉が血相を変えてわたしの寝床へやってくる。姉はわたしを抱き起こし、家を出ると一目散に走り出した。


 手を引かれるまま、わたしは訳も分からず走り出す。


 見ると、集落の人間も同じ方向を目指して走っている。いったいどこへ行くのか。皆、恐ろしい形相で走っている。そこに張り付いているのは、恐怖だ。何かを恐れている。しかし同時に、激しく高揚している。皆、大きく目を見開き、大きく口を開け、何か言葉を発している。


 あれは、何だったのだろう。わたしは激しく恐怖している。何に。集落の人間の持つ狂気に。これから始まる何かに。集落の人間はすべての感情を内包していて、それを恐怖が覆い隠している。そしてその恐怖をもまた覆い隠すように、皆が大口を開けて笑っているのだ。激しい恐怖と絶望と、それを凌駕する欣喜。


 わたしには周囲の人間が全員、そんな風に見えた。何も知らないわたしは、状況を把握できずにただ怯えるだけだった。


 どれくらい走ったのだろう。気が付くと、集落のはるか南に位置する御神根島という岬まで来ていた。


 息を切らしながら見渡すと、子どもはわたし以外いないようである。皆が空を見上げている。わたしもそれに倣う。星がとてつもなく綺麗だ。星が降ってきそうな夜。姉は他の人間と違い、呆然としている。わたしが姉の手を強く握ると、驚いたようにわたしを見つめ、急に顔を歪めた。泣きそうだけれど、こらえている。わたしは黙って状況の把握に努める。


 よく見ると、別の集落の人間もいるようだ。それだけではない。竜人類だけでなく、人類もいるではないか。わたしは驚いた。初めて見る人類は、耳も欠け、牙もなく、なんだか兄のようだと思った。そして、兄の匂いに似た匂いが人類からする。わたしはこの不思議に心の首を傾げたが、事態はそれどころではなさそうだった。


 空に響き渡る巨大な唸り声。


 御神根島にいる百人近い人々は、各々抱き合い、涙を流したり、祈ったり、唖然としたりしている。


 わたしはただ、恐怖に震えていた。何が起きている? 何かが起きているのに違いないが、何が起きているのか見当もつかない。


 気付くと、姉の周りに人だかりができている。わたしに気功の術を教え込んだ師匠が、姉に目で合図を送る。何を伝えているのか、わたしにはわからない。姉は無表情で頷き、深くお辞儀をする。


 師匠は姉の立っている足元の岩に右手を当て、その力を解放した。みるみるうちに砂は窪み、あっという間に十メートル四方の地下室ができあがった。わたしと姉はその小さな部屋のような場所に入り込んだ。他にも何人か、部屋の中へ入る。地上にいた人々は簡易的な屋根を淡々と作った。姉の手が震えている。わたしはただそれらを下から見上げ、何をしているのかと訝った。師匠に思わず尋ねると、師匠は目を細めて言う。その目は慈愛に満ちている。


「リアン様。あなたはこれから恐ろしい体験をすることでしょう。ですが、あなたは強い。あなたはすべてを知り、使命を全うせねばなりません。まずはあなたのお姉様の命をお守りすることです。あなたの〈その力〉を使えば容易いことです。……よろしいですか」


 師匠の言っていることはよくわからなかったが、わたしは反射的に頷いた。頷く以外、選択肢はなかった。


 また、唸り声が聞こえる。何の声だろう。見上げても、屋根の隙間からは星空が見えるだけだ。


 隣に立つ姉は、涙を流して「お兄様……」と呟いている。


 兄。そうだ、兄を連れてこなかった。わたしは唐突に思い出し、あの山頂で一人うずくまる兄が心配で仕方なくなった。


 わたしがそれを言うと、姉は勢いよくしゃがみ込み、私の肩を強く掴んで言う。


「リアン、心を強く持ってお聞きなさい。私たちのお兄様は……『ミミナシ様』は、その身に龍を宿しているのです。龍の名は、『ラヴィッジ』。さあ、言ってごらんなさい。『ラヴィッジ』と。さあ!」


 姉のその剣幕に気圧され、わたしは怯えながら繰り返す。


 ラヴィッジ、ラヴィッジ、ラヴィッジ。


「いいですか。これから『ミミナシ様』は、そのラヴィッジに身体をお捧げになるのです。ラヴィッジは世界に破壊をもたらす、恐ろしい神です。『ミミナシ様』は人格を失い、ラヴィッジに身体の主導権を明け渡します。ラヴィッジは世界に漂っている自分の細胞を集めて、これからお目覚めになります。

 けれどリアン、私たちは生き延びなくてはなりません。ラヴィッジは『ミミナシ様』のテロメアを使い果たしたら、再び長き眠りにつくのです。あなたはそれを、見届ける必要があります」


 あまりにも急な展開についていけなかった、というのが正直なところだ。わたしは姉の言っていることの大半を理解できなかった。


 しかし、生き延びなくてはならない……その言葉に、なんとなくとは言え、わたしは決意じみた思いをその時点で抱いていたかもしれない。


「来るぞ!」


 外で声がする。


 恐ろしい地響きと、この世の終わりのような唸り声。


 星空が見えていた空には一瞬で黒雲が立ち込め、気付けば雷が激しく鳴っている。強い雨も降ってきた。屋根の隙間からざあざあと大粒の雨が降り注ぐ。


 悲鳴が聞こえる。耳をつんざくような音。地響きのような低音と、耳鳴りのような高音が混ざった半端ではない音圧に、わたしは耳を覆った。姉はわたしを強く抱いている。


 見上げると、屋根の隙間から黒い影が見えた。


 はるか上空を飛ぶ、巨大な影。


 龍。


 龍、なのだろうか。


 あれは。

 

 あれが、ラヴィッジ、なのか。


 わたしは目を離せなかった。その想像を絶するほどの大きさ、現実味のなさがわたしを石化させていた。距離感を考慮すると、その体長は数キロ程度あったのではなかろうか。ゴオン……ドオン……という音だけが、このあたり一帯の空気すべてを支配する。


 砲撃のような音も聞こえる。何が起きているというのだろう。


 わたしたちの周りにいた竜人類が、バリアを地下室の上に張っている。防御タイプの一族のようだ。一人が自身の細胞を放出し、うねるような半透明の模様が天井に映し出される。一度強い音がした。あまりの音圧に一時的に難聴状態になる。


 キイィィィィイイイン―――――――


 遠くでするような耳鳴り。不快感に顔をしかめる。遅れて身体がふわりと浮かび上がり、瞬間、わたしは激しく地面に打ち付けられた。外側から巨大な力が一瞬で加わったのだ。地下室は数十メートルほど沈んだように思える。耳が痛い。気圧も一気に変化したようだ。外からの強い圧力を全身で受け止める。


 わたしは反射的に頭を抱えうつ伏せになりながら、そっと目を開く。


 見ると、目の前でバリアを張っていた竜人類が全身から血を噴き出して絶命していた。今の一撃で、力を使い果たしたのだろうか。確か防御タイプは、その盾の強度をあげようとすればするほど激しく消耗するはずだ。


 すぐさま別の竜人類が入れ替わるようにしてバリアを張る。常に外で激しい音がしているため、もはや何も聞こえていないかのような錯覚に陥る。わたしはうつ伏せになったまま、ただ、すべてを見ていた。


 その後も激しく部屋が揺れる。ブシッという変な音がしたかと思うと、バリアを張っていた人の肘がずれたようだ。骨が垂直方向に飛び出て血飛沫が舞った。その人は痛みに叫ぶ。その叫びをかき消すほどの爆音。その人は苦しげな表情をしつつも、その腕を上げてバリアを張り続けた。後ろからまた別の竜人類がすぐさまやって来て、その肘のあたりに手をかざす。するとその肘は一瞬で元通りになった。代わりに手をかざした人の肘が真っ赤に染まり、来ていた服を骨が突き破った。わたしはそれらをただ、見ている。


 顔を触ると、いつの間にか飛び散った誰かの生温かい血が手についた。ぬるぬるしているのが嫌で、わたしは無意識のうちにそれらを空気上に飛散させた。血の味が口の中にも広がっている。


 しかし、どうしようもない。


 私は呆然と立ち竦む。なにも、できない。見ているだけ。


 知らぬ間にひとり、またひとりと死んでゆく。


 どれくらい、そうしていただろう。


 わたしは何を思ったのか、ふとあたりを見回してみた。皆、恐ろしい形相で頭上を見上げている。回復しては傷つき、頭上から加わる力を防いでは傷ついていく。あと、何人いるんだろう。ぼんやりと数えてみたものの、途中で分からなくなる。


 後ろを振り返ると、姉がいた。姉は膝をつき、手を組んでただ祈っている。


 いったい、これは、何。


 どうして。


 どうして、こんなことになっているのだろう。わたしが見ているものは、いったい。


 わたしは空っぽの心に、赤黒い何かが入ってくるのを感じていた。揺れている。激しく揺れている。部屋も、目の前も、心も、すべてが、揺れている。


 数時間が経過しただろうか。


「……そろそろ、大丈夫だ」


 誰かがそう言い、わたしたちは外に出た。


 もしも地獄というものがあるならば、きっとそれはこのような光景を言うのだろう。地下室から出た瞬間にまず飛び込んできたのは、紛れもない「死」の匂いだった。死体は一切見当たらない。すべて、ただの真っ赤な肉片となっている。こんなに赤一色の景色は初めてだった。


 わたしは呆然と、ただその光景を眺めた。海も、砂浜も、岩場も真っ赤に染まっている。姉がわたしをさすっている。その時初めて、わたしは自分が過呼吸に陥り、激しく嘔吐していることに気が付いた。手を血まみれの地面について、訳も分からず胃の中にあるものを吐き出した。何かを出してしまいたい。この気持ちの悪い塊を出してしまいたい。自分を纏う重苦しい何かを、すべて振り払いたい。


 しかし、何度えずいても身体の中心を走る奇妙な塊は出てはいかない。喉奥に引っ掛かるように、赤黒い塊が詰まっている。


 肩で呼吸する私を、姉はずっとさすっていた。


 自分が見たもの、見ているものは、一体何なのか。


 地下室で生き残った数名は、生気のない顔で淡々と生き残るための作業をし始めた。


 姉は言う。ラヴィッジがここに戻ってくるのに数か月はかかるだろうから、それまで準備をするのです。


 わたしは何の準備ですか、と尋ねたが、姉は答えない。教えてください。お願いします。いったい、どうして、こんなことになっているのですか。「ミミナシ様」は、わたしの兄は、どこへ行ったのですか。


 姉はわたしを見つめた。果てのない絶望と哀しみを背負った目で。

 

 その後の数か月、自分がどのように息をしていたのか、わからない。当時のことは、断片的にしか思い出せない。ただ、姉の言った通り、ラヴィッジは帰ってきた。そして、ラヴィッジはまた深い眠りについたのだ。


 蛇足だが、「向日葵の祠宇」などと朗らかな名のついていた兄の部屋は、いわゆる「座敷牢」と呼ばれるものだということを、わたしは成人してから知った。


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