あの日 ー①ー〈リアンの記憶〉
幼き日のリアンは、何を見ていたのか。
「苦しみに対する本当の憤りは、その苦しみ自体ではなく、苦しみの無意味さに対してである」―――
遠い昔に好んで読み漁った偉人の言葉が、耳の奥でこだましている。
なぜ、今、思い出すのだろう。
この言葉がわたしの心に妙に不思議な心象をもたらしたせいだろうか。誰かはこの言葉から「苦しみの中に意味を見出すべきだ。それが生きる糧となる」という教訓を得たようだが、わたしは違った。この悲しいまでの憤りは、苦しみの無意味さに起因しているのだと単純に気がついた。そこには漠然とした寂しさがあった。意味もなく涙を流した。
そして今、わたしは、耳を覆っている。
両手で、力強く。
強く押しつけた手が、ぶるぶると震えている。
気がついたら、わたしはそうしてうずくまっている。見上げると、うねるような虹色の光の先にどす黒い雲が立ち込め、大粒の雨を送り出している。
その先に、空を泳ぐようにして浮かぶ黒い物体がある。
龍。
あれは、龍だ。
無心で龍のその姿を目に焼き付ける。巨大な龍は、どす黒い空を悠々と泳ぎ続けていた。……何か考えなければいけないのに、心は動かない。
地響きのよう音。自分の手を刺し貫いてくる強い音が、幾重にもなって視界を揺らしている。
ーーー二十二世紀、日本。
わたしを押し流していったのは、時だけだったのだろうか。何が今のわたしをつくりあげたのだろう。わたしはいつになったら、自分を赦せるのだろう。
赦す……? わたしは、赦されたいのだろうか。わからない。
ただ、世界だけがそこに在る。
わたしはそれを、憎いと思う。
※
当時のことを思い返すのは、苦しい。
わたしはまだ幼く、世界を断片的にしか眺めることのできないただの一匹の竜人類だった。
「リアンのお兄さんは、特別だからね」
集落の人間はよくそう言っていた。
確かに、兄からは他の竜人類とは異なる奇妙な匂いがしていた。それが何の匂いかはわからなかった。
兄はここで「ミミナシ様」と呼ばれ、一種の信仰対象となっていた。
兄は「向日葵の祠宇」という名の小さな部屋でずっと過ごしていた。その部屋は半分ほど土に埋もれていて、屋根は幼かったわたしの身長くらいの高さしかなかった。
いわゆる半地下というものだ。屋根の下には格子状の小窓が一つだけあり、そこから中を覗くことができた。
その小窓からしか陽の光が入らないその部屋は、「向日葵の祠宇」などという明るく朗らかな名に反して、いつも薄暗かった。兄は常にフードを深く被っており、表情がよく見えない。ただ、わたしが小窓に近づくと蹲っていたその身体を少し揺らして、こちらに顔を向ける。表情はよく見えないが、口元が笑っているのだけはわかった。
―――きっと、匂いでわかるんだ。
わたしはそれだけで嬉しかった。兄は他の者が祠に近づいてもこれといった反応を示さないのだ。わたしにだけ反応するのは、「家族」だからだ。そう思い、幼いわたしはどこか得意げだった。
父母はわたしが産まれてからすぐに死んだと言うから、わたしにとって身内とは、祠に住む兄と親代わりの姉だけだった。
姉はわたしより二十歳ほど歳上だったが、兄の年齢はイマイチよくわからなかった。ずっと蹲っているから、体格もよくわからない。もっとも、そこにさして興味もなかった。
集落に遊び相手がいないものだから、わたしは山頂にある兄の祠へ足繁く通っていた。自分に与えられている奇妙な能力の使い方だけを教わる日々の中で、兄と対話する時間は唯一の楽しみだったと言っていい。兄はよくわたしの話を聞きたがったし、わたしも兄の前では饒舌だった。
集落の人間が「ミミナシ様」へ供物を運ぶときだけ、わたしは唯一兄の顔を見ることができた。兄が食事をするのを何度か見ることができたのだ。供物を集落の人間が中に入れたあと、わたしは物珍しげに兄の食事を見つめる。フードを少し後ろに下げるため、いつもより表情が見えるのだ。
そこには、わたしたちとなんら変わらない普通の顔があった。初めて兄の顔を見た時、ひどく拍子抜けした気持ちになった。
丸く大きな瞳に、さらさらとした線の細い髪。これといって特徴のない、普通の顔だ。ただ、よく見ると不思議なことに牙がない。そして耳も丸く、尖っていないのだ。
―――だから、「ミミナシ様」と呼ばれるのか。
幼心に妙に納得したのを覚えている。
目が合うと、兄はにっこりと笑った。笑ったときの犬歯の短さが、不思議の感をわたしに与える。
わたしは「ミミナシ様」が兄だと周囲から当たり前のように教えてもらっていながら、彼を呼ぶときは「ミミナシ様」と呼ぶようにと躾けられていた。そこに何の疑問もなかった。兄が信仰対象となっていることに対しても、疑問に思ったことはない。わたしは良くも悪くも無垢で、すべてをそのまま素直に受け入れていた。
「ミミナシ様。今日は五メートル四方の岩を完全に消し飛ばすという練習をしました。粒と粒を完全に離して、空気上に散布させなければならないので、一瞬でその大きさの岩でそれをやりきるというのが難しかったです。なかなかうまくできませんでした」
「リアン、すぐ、できる、なる」
兄は語彙が乏しかった。教育というものを受けていない、というより、そもそも彼の中に言葉が入っていない。
空っぽだ。そんな感じだったように思う。それに対しても、わたしは特に何も思わなかった。わたしはあまりにも無垢だった。いや、そんな虚栄心にまみれた表現はよそう。わたしはあらゆる事象に対して、普通の人よりもはるかに無関心だったのだ。わたしはおそらく、根本的なところで空っぽなのだと思う。
わたしはある日、自分の持つ能力を使えば兄は外で遊べるじゃないかなどと、そんなくだらないことを本気で考え、その考えを得意げに姉に披露したが、それは絶対にしてはいけないと恐ろしい口調で言われてしまった。
面白くなかった。
この右手で触れたものは、なぜだか流動的な粒の集まりのように感じる。そしてそれを、わたしは自由に操ることができた。邪魔ならどかしたり、粒同士をぶつけて燃やしたり、硬くしたり。
粒を一気に崩す。そんなイメージだ。
わたしはこの能力を使っていくうちに、この力を何に活かそうかと考え始める。そこでふと思いついたのが、兄の祠だったわけだが、それは叶わなかった。ただ、そこで食い下がるほどの執念も幼いわたしにはなかった。
集落の人間たちはわたしを重宝して、いろいろな用途にこの力を使った。大して必要ないだろうと思っていたが、「いつかその力が必要になるときがくる」とだけ言われ続け、わたしは淡々と周囲の大人のくだらない要望に応えていった。火をつけたり、ものを壊したり、形を変えたり。
姉は集落の中で特に大切にされていた。信仰対象として崇められる兄とはまた違う目が、姉には注がれていた。
それは壊れやすい大切なものを丁寧に扱うような、そんな感じの目だった。姉はそれを当然のように受け入れていたが、わたしから見た姉は普通の竜人類の一人だった。それに姉は能力無しだったから、なぜ特別扱いをされるのかわからなかった。しかし、それに対して嫉妬や羨望といった感情は微塵も生まれなかった。何度も言うが、わたしはそういったことに全くと言っていいほど無関心だった。
ただ、心のどこかで理解していたとは思う。自分たちの一族は何かが違う。他の竜人類とは異なる何か、特別な何かがあるのだということを。
※
いつからだったのだろう。兄が少しずつ狂い始めたのは。
いつもの通り山を駆け登り、「ミミナシ様」に会いに行く。いつもの通り小窓から中を覗くと、兄は横になっていた。いつもは蹲って座っているだけなので、違和感を覚える。わたしが近づいても、特段反応を示さない。
わたしは声をかけた。
兄はゆっくりと身体を起こす。
起き上がる際に、深く被ったフードが捲れる。口元はいつものようにわずかに微笑んでいたが、兄の目は黄色く濁っていた。おぞましい、という語彙を持っていなかった当時のわたしは、自分の抱いた感情をどう形容すべきかわからなかった。
わたしは戸惑いながらも、咄嗟に兄は何か病気になってしまったのではと考えた。集落の皆が信仰対象とする「ミミナシ様」が病気になった。これは一大事である。わたしはその目はどうしたのですか、大丈夫ですかと声をかけたが、兄は曖昧に笑うだけだった。
家に戻って兄のことを報告すると、姉はこれでもかというほど目を開き、わたしをきつく抱擁し、しまいには声を出さぬようにして泣き出した。姉の行動にそれらしい理由を見つけることのできないわたしは、ただ困惑するだけだった。
あの日の姉の心を救ってあげられなかったことを、わたしは今でも悔やんでいる。
もっと早く、世界のことを知れていたら。もっとわたしが知ろうとしていれば。
悔いても悔いても、あの日にはもう戻れない。
集落の人間たちは兄の変化を把握しても、何も変わらなかった。比較的仲のよかった大人でさえ、「もうすぐなのです」などと意味の分からないことを言うだけだった。わたしに気功の術を指導していた五百歳ほどの竜人類は、わたしの話をうんうんと聞きながら少しだけ眉を下げたが、「あなた様にも、いずれは私の代わりになっていただかねば」と、これまた訳の分からないことを言う。
姉はよく、思いつめた表情をしていた。集落の人間と話すときはいつも通りの姉であったが、家に戻ってわたしと二人になると決まって苦しそうな表情になる。何かを言わなければならない、でも、言葉にならない。そんな表情であったように思う。
姉はきっと、幼いわたしにすべてを告げるのは時期尚早と踏んでいたのだと思う。わたしは集落に起きた変化のすべてについて何も知らず、いつも首を傾げていた。
祠に行くたびに、兄はだんだんと兄らしくなくなってゆく。わたしは不安になった。ある日小窓から覗くと、兄は奥の壁に頭を激しく打ち付けていた。わたしが声をかけると動きがぴたりと止まり、ゆっくりと振り向いてその血だらけになっている顔をこちらに見せる。目が合う。黄色く濁った眼は充血し、焦点が定まらない。兄はわたしを認めると、「リアン」とだけ呟き、それきり黙って蹲る。兄はきつく自分の膝を抱いている。わたしはどうしてよいかわからない。ただ、数時間をそのまま過ごす。
また別の日。
わたしが小窓を覗くと、兄は自分の腕を噛みちぎり、ぎちぎちと不快な音を立てながら咀嚼していた。
さすがに激しく困惑した。
ミミナシ様!
叫ぶと、兄は気怠そうにこちらに目を向ける。その目にはもう、生気が宿っていない。口元は自分の血で酷く汚れていた。わたしはどぎまぎしながら尋ねる。
どうして、そのようなことをなさるのですか。
兄は黙ったままだ。そのまま、どれくらい時間が経ったのだろう。兄は突然、顔を両手で覆って泣き出した。噛んでいた右腕は損傷が激しく、欠落部分から血がダラダラと止め処なく溢れている。痛々しいが、何もできない。兄はただ、悲痛な声音で泣くだけ。
なぜ、泣くのか。その涙は、何故のものなのか。
わたしには、何もかもがわかりかねた。わかろうともしなかった。わたしは、ただ戸惑い、流されるだけの子どもだった。
しかし今になって思い返せば、あの日々にすべてが詰まっていた。ヒントはすべて散りばめられていた。
わたしがあまりに、無関心すぎたのだ。だからわたしはずっと、愚かなあの日々の自分を呪い続ける。




