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【番外編】傷をつけた日〈キムの手記〉

手記

 なんとなく文章を遺す気になった。


 多分、私自身の死期が近いことを予感させるからだ。これを誰かが読むことになるなら、できれば私をなるべく知らない人がいい。


 ※


 私の一族はいわゆる回復タイプと呼ばれる一族で、この家系に生まれたものの多くは〈他者の傷を癒す〉という特別な力が与えられる。


 他者の傷を癒す、というのは少し語弊がある。正しくは〈移す〉だ。


 もちろん細胞の扱いには個体差はあるが、その力を持つ多くの者は目に見える外傷からウイルス性の病気まで、対象の個体に不利益を与えるものであればなんでも自身の体に移すことができた。


 相手の患部に自分の中にあるエネルギーの流れを伝えるといった感覚で、気が付くと相手の傷がそっくりそのまま自分に出現する。細かいメカニズムはよくわからない。


 はるか昔には穢れの一族と冷遇された時代もあったようだが、利用価値には変えられなかったのだろう。私たち回復タイプの一族は、私の記憶に残る限りではそれなりに重宝されてきたと思う。極寒の地で細々と狩猟採集をして傷や病気をもらいながら淡々と生きる毎日は、決して不満があるわけではなかったが、面白くなかった。


 生まれてから、十年ほど経った頃だろうか。


 突然、親が死んだ。


 生殖を終えた個体は、急速に朽ち果ててゆく。だから遺された子どもは周辺環境に恵まれなければ生き延びてゆくのに苦労するし、何とか生き残れてもどこか気難しくなってしまう。


 私は子どもを産むことをしなかった親戚に育てられたから、取り立ててこれといった苦労なく生きてきた。育ての親には、親の死を悲しむよりも、まずは自分が強くなること、自分に発現している能力を磨くことを優先すべきだと幼少期から散々叩き込まれた。だから私は生き抜く術を身に付けるよりも、他者から〈傷を貰う〉術を磨き続けた。


 いつしか痛みに鈍くなり、傷を移すことを恐れなくなり、免疫がついたのか大抵の病気や怪我なら半日もあればすぐに治るようになった。


 実際、私はこの〈他者の傷を自分に移す〉能力をより洗練させることに成功していた。しかし、そもそも傷を負うことの少ないこの世界で、この能力を洗練させる意義がどれほどのものかは正直図りかねた。


 二十歳になり、一族で簡単に成人式を済ませたあとは、ここから遥か南の地にあるリードリールという集落へ行くようにと命じられた。その集落には回復タイプがおらず、色々と苦労しているというのだ。


 今になって思えば、これは我が一族の先見の明のひとつだったのだろう。


 しかし当時の私は、体のいい口減らしなのだろうと卑屈に考えた。成人した若い竜人類が大して働きもせずに、さして使い所のない能力を弄びながら、いつまでも育ての親に頼っているのがあまりよく思われなかったのだろう。私はそう自分に言い聞かせながらも、そのように育てたのはお前らじゃないかと不貞腐れながら家を出た。


 使命がどうとか、未来がどうとか、その血がどうとか、よくわからないことを色々言われた気がするが、「集落を追われる」という事実を突き付けられたあとでは何も耳に入ってはこなかったし、大して面白くもないだろう自分の未来にこれといった興味もなかった。


 家にはまだ十歳の弟がいた。母が死に際に遺したもうひとつの命だった。


 弟には、細胞を操る能力がなかった。


 能力のない竜は、どうしても庇護を必要とする。追い出されるのは私で当然だった。


 私は弟を無条件に愛し、可愛がり、そして羨むと同時に、歪な憎しみさえ抱きながら、家を捨てた。

 

 捨て鉢になる気持ちを抑えながら旅をした数年だった。なぜ自分がリードリールに行かなければならないのか、納得のいく解答を得られぬまま一人でひたすら歩く。


 太陽と星を見ながら方角だけは間違わぬように歩いたが、気持ちがどうにも向かない時は来た道を引き返し、はるか昔の暮らしの跡を眺めてはぼんやりと数ヶ月という時間を過ごした。孤独を弄ぶ日々。前時代の廃れた生活の跡だけが私の虚弱な好奇心を慰める、空虚でくだらない毎日だった。


 今思えば、数年もの間クリーチャーに遭遇しなかったのは奇跡としか思えない。


 季節が変わるといつも食糧が不足し出した。極寒の地でも食糧に困ることはほとんどなかったが、それは集落にいたからだ。私一人では満足のいく食糧を調達することはできなかった。私はどんどん痩せ細り、もはや物理的な体力だけでなく、生きる意味も気力も底を尽きつつあった。


 もう、そろそろ死んでもいいかな。クソみたいな人生だったけど。


 傷を治しても、別に感謝されてきたわけじゃなかった。回復タイプなんだからそれが当たり前だとでも言うような空気。集落を追われ一人になって、麻痺していた感覚が解きほぐされたように鋭敏に、そして鮮明になっていく。


 外傷は簡単だから、病気を完全に治せるようになれ。そう言われた時の自分の顔は、いったいどんな顔だったのか。


 狩りの最中に獲物に腹が抉られて腸が出たまま帰ってきた男を治した時も、私は痛みに叫びながら小屋で自分の腹を縫ったのに、外傷は簡単だから、だと。笑わせるな。


 お前は一族の中でも特別だから。病気を治すのが一番上手いから。傷の治りが一番早いから。


 そういう文句を、回復タイプ以外の奴らがずけずけと言う。でも私が憎んだのは周囲ではなかった。自分を認め、誉め、称賛してくれる声を求めてこの力を二十年も磨き続けた愚鈍な私だ。承認欲求というのは、渇きに似ている。どれだけ潤しても、またいずれ渇き、それに耐えられなくなる。


 なかなかリードリールに辿り着かぬまま食糧にありつけない日々が数か月続き、心身共に限界が近付いていたある日のことだ。


 私はとうとう出会ってしまった。


 木々の隙間から覗く渦状の目が、こちらを凝視していることに気が付く。奇怪な音を立てながら、こちらを伺っていることだけがはっきりとわかる。初めてクリーチャーに会った時の感情を上手く形容できない。


 とにかくまずいと思った。生きることに対する執着はとっくに捨てていたと自分では思っていたが、実際にクリーチャーを目にした私は恐ろしく死を忌避していた。眼前に迫り来る恐怖を自分から遠ざけようと、手近にあった瓦礫を震える手で握ってはみるが、なんの足しにもならない。


 この状況をどう脱しようか思案していると、クリーチャーが突然こちらにその身を捩らせながら突進してきた。


 牙や鉤爪が私の急所を狙っているのが直感的にわかった。反射的に身構えるが、戦ったことなどない私の身体は、まるで錆びた機械のように動かなかった。情けない話だ。


 これ以降のことは書くのがどこか憚られるが、私の大切な思い出でもある。人生をこの人に賭けたいと思えるような、そんな出会いだ。


 突進してきたクリーチャーは私に牙をかけることはなかった。それよりも早く、はるか昔に途絶えたとされていた気功タイプの末裔、リアンが私を助けたのだ。彼女(と記すのが適切かわからないが、生物学上の分類に準ずる。私にとって、リアンの性を一意に定めることに意味はない)は、類を見ないレベルのずば抜けた身体能力を有していた。


 私とクリーチャーの間に瞬時に入り、その右手をクリーチャーの喉元に押し当てた。どうしたことか、その喉元がみるみるうちに爛れていき、どす黒い血が飛び散る。クリーチャーは耳障りな音を立てながら巨体を捻り、鋭い尾を振りかざした。まだ、生きている。


 リアンは右手でクリーチャーの喉元を押さえつつ、ちらと私を見た。尾が私に当たると思ったのだろう。固まっている間抜けな私をめがけて尾が振り下ろされた瞬間、リアンは右手を離して私を抱き上げた。


 瞬間移動したかのようだった。その時、尾がリアンの足を掠めたのだろう。クリーチャーからいくらか離れたところに着地して見ると、リアンの右足の履き物は見事に切れており、そこからは血が溢れているのがわかった。


 クリーチャーは既に事切れていた。まだピクピクと嫌な動きはしているが、それどころではなかった。


 リアンの手から降ろされた私は、反射的にリアンの傷を自分に移そうとした。その傷付いた足に触れようとすると、リアンは怪訝そうな表情ですぐに避けた。


「傷を、治させて」


 それが私の精一杯だった。リアンは合点がいったというように隠されていない左目を細め、血まみれの手でそっと制した。


「回復タイプの一族か。鳩を飛ばしたのが十年ほど前だったが、ようやくここまで来たのか。随分かかったな」


 言っている内容に反して口調は柔らかだった。縹色の目が優しく和らいだのがわかった。


「足を見せて」


 私はもう一度言ったが、食い気味にリアンは言う。


「傷を治す必要はないよ」


「どうして。助けてもらった。私、あなたが来なかったら死んでいた」


 言いながら、昨日まではもう死んでもいいやと思っていたのに、と自分で勝手に後ろめたくなる。


 リアンは私の顔をじっと見つめた。


「……傷を自分に移すんだろ。痛みがなくなるわけでもないのにそんな反射的に治そうとするなんて、よっぽど訓練されてきたんだな」


 私は驚いた。回復タイプの人間が痛みを気遣ってもらうことなどあるはずがないと信じていたからだ。驚きと羞恥と悔しさと嬉しさと、奇妙に重なり合う感情が大きく膨らみ、私はムキになって言った。


「……私を助けたせいで付けてしまった傷を治さないなんて、私のプライドが許さない。傷を治すことだけが私の存在意義なんだから、それを否定しないで」


 素直な物言いが苦手な私の言葉にリアンは少し驚いたようだが、ふっと息を吐くようにして口角を上げた。笑ったのだと思った。


 ここで嘘偽りを書く必要はないからはっきりと記そう。そのエフェメラルな美しさに、心底惚れ惚れしたのだ。


 外形的な話ではない。能力があり、芯があり、圧倒的な強さがあるのに、そこに差す翳りや透明な雰囲気、なんとも言えない不思議な魅力。彼女から溢れ出る不思議なオーラ―――それはこの世の全てに対する無償の愛、ないし寛容さだったのかもしれない―――が私の虚ろで頑なだった心を瞬く間に解していった。


「せっかく助けた相手にこっちの傷を移したら、助けた意味がない。それにこの傷はオレの失態だから、気にする必要はないさ。たまには自分ではなく他人に傷をつけたっていいだろう。その優しい気持ちだけ受け取るよ、……ありがとう。名はなんと言う」


 その言葉に私はどれだけ救われたことか。どれだけ嬉しかったことか。筆舌に尽くし難いとは、このことを言うと思う。


 なぜ救われたと思うのか、これを自己分析するのはいくらか気力が必要だ。なぜなら、自分が蓋をしてきた感情を直視する必要があるからだ。


 思えば、私はこの力を持って生まれたことを誇ったことはなかった。しかし、その気持ちに向き合うことはできなかった。


 ……そうさせてはもらえなかった。私はこの力を通してでしか自分を認めることはできなかったし、この力を認めないと私は生きてゆけなかったと思う。私は自分を騙し、幼い心を鼓舞し、喜んで傷みをこの身に刻んできた。どうして能力を持たずに生まれた弟を羨ましいと言えよう。私は自分の手で、自分を納得させてきたのだ。私の心は頑なだった。


 リアンのくれた言葉は、生まれてからずっと閉じ込めてきた形容しがたい思いを抱き続けた幼い私への……無垢で臆病な私へ初めて差し伸べられた、温かな肯定だった。


 突然涙を零した私を、リアンは慈愛と憐憫、悲哀の混ざったような、仄暗く、しかし温かな……何とも形容しがたい不思議な眼差しでただ見つめてくるだけだった。


 私にはそれが心地よかった。


 涙を流しながら、私は思わず笑った。鳥籠から解き放たれた鳩のように、自分は空に飛び出したのだと思った。自分にかけられていた呪縛は、この時に紐解かれていったのだと思う。


 私は笑い続けた。泣きながら笑う私を、リアンはやさしい瞳で見つめた。


 空はずっと、自分が信じていたよりずっと広かった。


 そして私は噛み締める。生きている。私は、生きている。


 ああ、いのちの味がする。そう思った。


※


 私はその後、リアンに連れられてリードリールへ行くことになる。この集落で唯一の回復タイプとして、この集落を守るようにと頼まれたのだ。しかし、傷を請け負うことはそれほどなかった。集落の人々が自己免疫を高めることも必要だとリアンは言い、私がその力を使うのはたまだった。その代わりに、クリーチャーと戦う術や食物の調達方法を学んだ。私はすべてにおいて新しい発見に満ちた日々を送ることができた。リアンには、感謝してもし尽くせない。


 私はあの日から、この人のために生きることを決めた。


 どうせ一度救われた命だ。リアンがいなければ、きっと私はあの日に死んでいた。いや、あの日に私は死んだんだ。


 私はリアンのためになら、いつだって喜んで傷みを引き受ける。なんだってやれる。


 私が生まれて初めて、誰かを傷つけてしまった日。初めて傷みを受け取ってもらえた日。


 この日だけは、この先どれだけ長く生きても忘れられそうにない。


 彼女に与えてしまった傷を、私はいつか治せるだろうか。返せるだろうか。


 死の予感は私を竦み上がらせなどしなかった。むしろ、それを意気軒高と受け入れようとさえ思えた。彼女の願いに応えることができるのは私だけなのだというその特別感は、私を強く安心させる。


 もし私がこの願い通りに死ねるなら、私はきっと最後まで幸せだったと胸を張って言える。


 世界が彼女を許さなくても、私だけは彼女の味方でいたい。

 

 彼女は、私のすべてだから。

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