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【完結】結婚哲学入門 ―公爵夫人は裏切りの構造を研究する―  作者: 遠野 周


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第8話 当事者の夫婦 ―理性の限界―

 「少なくとも、ルシアンは。

  これ以上、私を惨めにするような振る舞いは――

  していないわね。」


 その声音には、感情がほとんどありませんでした。


 評価でも、擁護でもなく。


 ただ、観察の結果としての事実。


 けれど私は、その一言が、

 思いのほか重いものであることを理解しておりました。


 ――比較してしまったのです。


 あの男と。


 「……ええ。」


 私は、小さく頷くことしかできませんでした。


 エリーヌ様は、しばらく紅茶を見つめておられました。


 やがて、ひとり言のように。


 「……私には。」


 そこで、言葉が止まる。


 続きは、声になりませんでした。


 けれど私には、その先が聞こえた気がしました。


 ——あのような強さが、あるのだろうか。


 才覚も、覚悟も。


 子どもたちを抱えて、ひとりで立つことが。


 エリーヌ様は、答えを出されないまま、

 静かに紅茶へ口をつけられました。


 「……では。」


 その一言は、

 誰に向けられたものでもなく。


 ただ、思考の続きを促すための、

 小さな標のようでした。


 「私の着地点は――」


 そこで、言葉が途切れる。


 しばらくの沈黙。


 答えを探すというより、

 答えが存在するのかを確かめているような、静けさ。


 「どこ、なのかしら。」


 その問いは、軽くありませんでした。


 これまで見てきたすべてを含んで、

 なお、何も決められない重さを持っている。


 「赦すのか。」


 指先が、カップの縁をなぞる。


 「赦さないのか。」


 「共に在るのか。」


 「離れるのか。」


 ひとつひとつ、言葉にしてはみるものの、

 どれも、どこか現実から浮いている。


 「……どれも。」


 小さく、息をつく。


 「しっくり来ないのよね。」


 それは、迷いというよりも。


 既存の選択肢そのものが、

 適合していないという違和感でした。


 沈黙。


 やがて、ほんのわずかに、

 口元が緩む。


 「……困ったわ。」


 その声音は、どこか乾いていて。


 けれど、完全な絶望ではない。


 「……そういえば。」


 ふと、独り言のように。


 「父の領地を、少し分けてもらうことは——できるわね。」


 その言葉は、発見というより、

 ずいぶん前から存在していたものへの、遅い気づきでした。


 「別居という形も、あるわ。」


 「リュカは、跡取りだから——」


 そこで、少しだけ間が空く。


 「三人一緒には、いられないかもしれないけれど。」


 エリーヌ様は、ほんのわずかに目を伏せられました。


 やがて、小さく息をつく。


 「……ずいぶん、遠回りをしたわね。」


 自嘲というより、確認に近い声音でした。


 「最初から、現実はあったのに。」


 「私ったら、何を今さら——」


 そこで、言葉が止まる。


 少しの沈黙。


 「……嵐の中にいたのね。」


 その一言だけで、十分でした。


 「気づかなかったのではなくて。」


 「見えていなかっただけ。」


 私は、何も言えませんでした。


 ただ、その言葉が——

 これまでのどの観察よりも、

 エリーヌ様ご自身のものであることだけは、

 わかりました。


 「……理屈は、あったのよね。」


 「ただ、私が——使えていなかっただけ。」


 そこで、言葉が途切れました。


 エリーヌ様は、しばらく動かれませんでした。


 カップを持ったまま、ただ静かに、

 どこか遠いところを見ておられる。


 やがて。


 ほんの小さな音がしました。


 私が顔を上げると、

 エリーヌ様の頬に、一筋だけ、光るものがありました。


 拭おうともされない。


 気づいておられないのかもしれません。


 「……悲しいのね。」


 その言葉は、誰かに向けられたものではありませんでした。


 ただ、発見するように。


 自分の内側を、初めて覗いた者の声音で。


 「ずっと、悲しかったのね。私。」


 私は、何も言いませんでした。


 言えませんでした。


 ただ、この方がようやく、

 悲しんでいる自分に会えたのだと——


 そう思いながら、静かに傍に立っておりました。


 その日、エリーヌ様は書斎へも向かわれませんでした。


 ノートも開かれない。


 ただ、窓辺の椅子に腰掛けて、

 光の動くのを、ぼんやりと見ておられました。


 時折、リュカ様やソフィー様が顔を出されると、

 いつも通りに微笑まれる。


 けれどお子様方が去ると、

 またすぐに、遠いところへ戻っていかれる。


 私は、邪魔をしませんでした。


 必要なのは、言葉ではないと思いましたから。


 夕刻になり、陽が落ちかけた頃。


 エリーヌ様は、ふと顔を上げられました。


 「アデル。」


 「はい。」


 「……明日、帰りましょう。」


 帰る、という言葉が、

 どこを指しているのか——

 問うまでもありませんでした。


 「荷物の準備を、いたします。」


 私がそう答えると、

 エリーヌ様は小さく頷かれます。


 「向き合わなければ、ね。」


 その言葉は、決意というより——

 静かな確認でした。


 自分に言い聞かせるでもなく、

 ただ、辿り着いた場所を、

 口に出して確かめるような。


 「研究では、答えが出なかったもの。」


 ほんのわずかに、口元が緩む。


 それは、この数週間で初めて見る、

 力の抜けた笑みでした。


 私は、深く頭を下げました。


 「……お帰りをお待ちしておりました。」


 エリーヌ様は、少しだけ目を細められる。


 何もおっしゃいませんでしたが、

 それで、十分でした。


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