第7話 破綻の夫婦 ―被害者という装置―
その依頼は、あまりにも軽い調子で持ち込まれました。
「ちょうどいいから、聞いてきてちょうだい。」
エリーヌ様のご母堂は、そうおっしゃったのです。
まるで、日常の用事のひとつのように。
話の発端は、分家筋のご夫婦でした。
領地を持つ、地方の家。
本家の庇護下にあるとはいえ、
日々の営みは、自らの責任で回していく立場です。
夫婦の結束が、そのまま家の安定に直結する。
――そういう場所でした。
その家の奥方が、離縁を望んでいる。
それ自体は、珍しい話ではありません。
けれど問題は、その後にありました。
夫が、執拗に本家へ訴えを繰り返しているのです。
「一度でいい、話を聞いてほしい」
「正当な判断を仰ぎたい」
「このままでは、不当に扱われてしまう」
本来であれば、関わる必要のない事柄です。
夫婦の問題は、夫婦で完結するもの。
形式が整えば、離縁は成立する。
にもかかわらず。
彼は、“本家の承認”を欲している。
――正当性が欲しいのです。
本家としての判断は、明確でした。
関与しない。
それが最も穏当で、最も合理的な対応です。
けれど、訴えは続く。
無視し続けるには、少々しつこい。
そこで、白羽の矢が立ったのが――
エリーヌ様でした。
本家の娘でありながら、すでに他家へ嫁いでいる。
話を聞いても、本家の見解にはならない。
けれど、対応したという事実だけは残る。
――都合のいい立場。
エリーヌ様は、その話を静かに受け止められました。
「そう。」
ただ一言。
そして。
「……研究に、ちょうどいいわね。」
私は、その言葉にわずかな不安を覚えました。
これまでの観察とは、明らかに質が異なる。
誠実の“形”ではなく。
それが、どこまで崩れ得るのか。
当日。
その男は、時間よりも早く到着しておりました。
応接間の中で、落ち着きなく動き回る。
座っては立ち、
立っては指を弄ぶ。
エリーヌ様の姿を認めると、
ほとんど安堵したように笑みを浮かべました。
「ようやく、お話しできます。」
その声音には、期待がありました。
――理解されるという確信。
「私は、誠実に生きてきたつもりです。」
彼は、そう切り出しました。
家のために働き、
領地のために尽くし、
夫としての責務も果たしてきた。
指を折るように、言葉を並べる。
「それなのに。」
わずかに声が強まる。
「妻は、私を理解しない。」
(訳:期待した役割を果たさない)
「女性としての魅力も失われていきました。」
「努力を怠ったのです。」
(訳:原因は妻にある)
「ですから私は――」
わずかに間を置く。
「外に、求めたのです。」
(訳:不倫の正当化)
「首都では珍しいことではないでしょう。」
少し得意げに続ける。
「むしろ、成熟の証とも言われている。」
その言葉は、どこかで聞きかじったものを、
無理に繋ぎ合わせたような響きを持っていました。
「それに私は夫婦関係においても、配慮は怠りませんでした。」
「……それは。」
エリーヌ様が、静かに問われる。
「誰のための配慮かしら。」
彼は、一瞬だけ言葉を失いました。
答えられない。
それでも彼は、話を続けます。
「賭け事も、息抜きの一環です。」
「責任ある立場には必要なことです。」
(訳:浪費の正当化)
そして、最後に。
「私は、被害者なのです。」
すべての言葉が、そこへ戻る。
円を描くように。
エリーヌ様は、ただ一言。
「そう。」
とだけ応じられました。
何も与えない。
何も返さない。
その沈黙の中で、
彼の語りは、意味を失っていきました。
数日後。
エリーヌ様は、奥方だけをお呼びになりました。
理由は明確でした。
――離縁後の生活が、成立するのか。
奥方は、落ち着いた様子で現れました。
「結論は、変わりません。」
席に着くなり、そう言い切る。
「離縁いたします。」
その声音には、揺らぎがありませんでした。
「生活の見通しは?」
エリーヌ様の問い。
「問題ありません。」
即答でした。
「もともと、領地の実務は私が担っておりました。」
「資産の整理も済んでおります。」
淡々とした説明。
感情は、ほとんど含まれていない。
「理由を、改めて伺っても?」
奥方は、ほんのわずか考え。
「排除できないからです。」
その言葉は、静かに落ちました。
「殺すこともできません。」
「牢に繋ぐこともできません。」
「声高に糾弾することも――子どもたちのために避けたい。」
ひとつひとつ、現実を並べていく。
「ですから。」
「私の人生から、退場していただくだけです。」
少しの間、奥方は窓の外を見ておられました。
やがて、静かに続けられます。
「一人でも、ひどく困ることにはなりません。」
「子どもたちを養うことも、教育することも——」
「できます。」
その声音には、強がりはありませんでした。
「幸いなことに。」
ほんのわずかに、口元が緩む。
「私には、才覚がありましたから。」
その言葉は、強がりではありませんでした。
後から知ったことですが、奥方はすでに動いておられました。
離縁を決意された時点から、着々と。
領地の収支記録、小作人たちの証言、実務を担ってきた事実を示す書類——それらは、すでに整えられていたのです。
望んでおられたのは、離縁だけではありませんでした。
幼い息子君の後見人として、管轄地の管理を続けること。
子どもたちの傍に留まりながら、家を守ること。
それが叶うかどうかは、まだ定かではありませんでした。
けれど、順当に進めば——おそらく、通るだろうという段階にまで、ひとりで辿り着いておられた。
本家への上申は、まだ先のこと。
けれど、その準備は、整えられていた。
私は、その事実を知ったとき、ただ感嘆しました。
この方は、嵐の中でも、ちゃんと足元を見ておられたのだと。
「……不倫については。」
奥方の目が、わずかに冷える。
「高位の方々のなさることを、
本人なりに学んだのでしょう。」
わずかな皮肉。
「けれど。」
静かに続ける。
「恋人に、自分の色を纏わせて連れ回る。」
「夫婦の振る舞いまで模倣する。」
その一瞬だけ。
明確な嫌悪が滲みました。
「――あれでは、文化ですらありません。」
沈黙。
「ただの、誇示です。」
「そして。」
「ひどく、私をみじめなものにさせます。」
「……赦せるか、と問われれば。」
エリーヌ様が、静かに問いを差し向けられる。
奥方は、ほんのわずかだけ考えました。
「今は、できません。」
その答えは、迷いのないものでした。
「けれど――」
小さく、息をつく。
「時間が、赦しを与えることはあるのでしょう。」
「忘却が、赦しとなることも。」
視線を落とし、静かに続ける。
「それは、きっと。」
「私にとって、幸いなことです。」
顔を上げる。
「ですが。」
はっきりと。
「それと、共に生きることは、別の話です。」
「私は、そのような人間と、
一瞬たりとも同じ空間にいたくありません。」
「子どもにも、悪影響です。」
「姉ばかりを可愛がり、
弟を軽んじる。」
「そんな父親は――」
「不要です。」
屋敷へ戻ってからも、
エリーヌ様はしばらく言葉を発されませんでした。
ただ、ゆっくりと手袋を外し、
いつもの所作で椅子に腰掛けられる。
その一連の動きに、乱れはありません。
やがて。
ぽつりと。
「……少なくとも。」
独り言のように、言葉が落ちる。
「ルシアンは。」
ほんのわずかに間を置いて。
「これ以上、私を惨めにするような振る舞いは――」
視線が、静かに伏せられる。
「していないわね。」




