第6話 再構築の夫婦 ―終わったはずの感情―
ルシアン様からの手紙は、日を置かず届いておりました。
最初のうちは、エリーヌ様ご自身で目を通されていたのです。
――夫婦として、確認すべき事柄が含まれていないか。
ただ、それだけの理由で。
けれど。
届く手紙は、どれも同じ内容でした。
謝罪。
弁明。
そして、赦しを乞う言葉。
それらは一見、整っておりましたが、
読むたびに、確実に何かを削っていくものでした。
静かに、しかし確実に。
やがて、ある日。
エリーヌ様は、その手紙を閉じて、
私へと差し出されたのです。
「……アデル。」
その声は、いつも通り穏やかで。
「今後は、あなたが目を通してちょうだい。」
一瞬、意味を測りかねました。
けれど、その意図は明確でした。
――読まない、という選択。
私は、深く頭を下げます。
「かしこまりました。」
けれど、顔を上げたとき。
エリーヌ様は、ほんのわずかに視線を逸らされました。
「……本来なら。」
小さく、言葉を選ぶように続けられる。
「夫婦のやり取りは、私的なものでしょう。」
その通りです。
主人から主人へ向けられた言葉に、
第三者が触れることは、決して礼儀にかなったことではありません。
侍女であればこそ許される範囲であっても、
それはあくまで“例外”です。
「あなたに、これを任せるのは――」
そこで一度、言葉が途切れる。
「……少し、無作法かもしれないわね。」
私は首を横に振りました。
「いいえ。私の役目です。」
それは事実でした。
けれど同時に、
この役目が“通常の範囲を越えている”ことも、理解しておりました。
エリーヌ様は、小さく頷かれます。
「……ありがとう。」
その一言は、
命令ではなく、確かに“委ねる”ものでした。
――だから。
私は思ったのです。
ここまで内側を預けていただいた以上、
私もまた、
内を隠したままでいてはいけないのだと。
見せるべきものがあるのならば、
それはきちんと見せるべきだと。
たとえそれが、
少々“私的”に過ぎるものであったとしても。
契約で結ばれたご夫婦と別れてからというもの、
エリーヌ様は、しばらく静かでいらっしゃいました。
考えておられるのです。
「……誠実、なのよね。」
ぽつりと落ちた言葉。
「約束したことを守る。
それだけのことなのに、
どうしてあんなにも揺らがないのかしら。」
否定ではなく、理解に近い響きでした。
だからこそ――
私は、少しだけ迷ったのです。
次にお見せするものが、
その理解を壊すことになるかもしれないと。
「……もしよろしければ。」
私は、意を決して申し上げました。
「お会いになっていただきたい方が、おります。」
「どのような方?」
「……身内です。」
その一言で、空気がわずかに変わりました。
館に向かう道すがら、
エリーヌ様は何もおっしゃいませんでした。
ただ一度だけ。
「……アデル。」
と、私の名を呼ばれ。
「無理は、していない?」
そう、静かに尋ねられました。
私は首を横に振ります。
「いいえ。」
そして、小さく付け加えました。
「……見ていただきたいのです。」
私がこのご夫婦を案内したのは、
研究の材料としてではありません。
ただ――この形を、エリーヌ様に見ていただきたかった。
そして正直に申せば、
私自身も、まだ答えを持てずにいるのです。
その館は、決して大きくはありませんでしたが、
よく手入れされておりました。
豊かではあるが、過剰ではない。
――地方の、堅実な家。
その空気には、本来ならば、
もっと安定したものがあるはずでした。
夫婦が支え合い、
家を守る。
それが前提の場所です。
応接間に通されると、
お二人は並んで座っておられました。
距離は近い。
けれど、どこか硬い。
「……お久しぶりです。」
私がそう言うと、
奥方が、少しだけ微笑みました。
「ええ。」
その声は、穏やかでした。
――穏やかすぎるほどに。
「本日は、ありがとうございます。」
エリーヌ様が、丁寧に頭を下げられる。
けれどすぐに、少しだけ困ったように続けられました。
「ただ――」
「私は、部外者ですわ。」
その言葉は、とても誠実でした。
「お身内のことに踏み込むのは、
本来、許されるべきではないでしょう。」
私は、その場で一瞬だけ、言葉を失いました。
――確かに、その通りです。
けれど。
奥方が、静かに首を振る。
「いえ。」
「むしろ、外の方に見ていただきたいのです。」
(訳:私たちは、もう自分たちでは判断できない)
その一言で、場は決まりました。
「私たちは、恋愛結婚でした。」
ご主人が、静かに口を開く。
「互いに望んで、共に生きることを選びました。」
(訳:最初から、感情がすべてだった)
「この土地では、珍しいことではありません。」
奥方が続ける。
「むしろ、必要なことですわ。」
「夫婦が結束していなければ、
家は維持できませんもの。」
その言葉は、正しいものでした。
この地では、信頼は装飾ではなく、
基盤なのです。
「それが――」
ご主人の声が、わずかに揺れた。
「壊れました。」
沈黙。
「……不倫です。」
奥方が、あまりにも淡々と告げる。
「私が。」
私は、思わず息を止めました。
それは、この土地では――
明確な裏切りです。
「終わらせました。」
ご主人が、低く言う。
「一度。」
(訳:夫婦としての関係を)
「家も、分けて。」
「生活も。」
奥方が、小さく頷く。
「正しい判断でしたわ。」
(訳:あのままでは、保てなかった)
「では、なぜ――」
エリーヌ様の問いは、静かでした。
「……終わらなかったのです。」
ご主人が、答える。
その言葉は、理屈ではありませんでした。
「私は、その人を愛していました。」
奥方が続ける。
「――とても。」
その声音には、迷いがありませんでした。
「美しい時間でした。」
その一言で、空気が変わりました。
“過ち”ではなく、“価値のあるもの”として語られたからです。
ご主人は、奥方の話を聞きながら、一度だけ息をつかれました。
否定でも、同意でもない。
ただ――どこか、持て余しているような。
エリーヌ様は、その一瞬を、静かに見ておられました。
「……分かっています。」
ご主人は、小さくこぼしました。
「否定する気は、ありません。」
少しの間。
「ただ――」
そこで、言葉が止まる。
続きは、ありませんでした。
ご主人の視線が、ほんの一瞬だけ、奥方へ向きました。
すぐに、窓の外へ逃げる。
――逃げた、というより。
向け続けることが、できなかったのでしょう。
「戻ってしまいました。」
奥方が、静かに言う。
「正しくは。」
少しだけ考え、
「戻ろうとしている、でしょうか。」
沈黙。
その沈黙は、
契約の夫婦のものとは違いました。
曖昧で、
揺れていて、
どこにも収まらない。
帰り道。
エリーヌ様は、長く何もおっしゃいませんでした。
やがて、ぽつりと。
「……美しい、のね。」
その声には、わずかな戸惑いがありました。
「裏切りであっても。」
少しだけ間を置いて。
「……なお。」
私は、その言葉に、何も返せませんでした。
エリーヌ様は、窓の外を見つめたまま、
静かに続けられます。
「合理的ではないわね。」
「けれど――」
その先は、言葉になりませんでした。
その沈黙は、
これまでのどの観察よりも、
深いものであったように思えたのです。
私はふと、ルシアン様のお手紙を思い出しました。
――友人たちとの間に生まれた、あの居心地の良さを、私は手放す理由を自分で見つけることができませんでした。今となっては、それが恥ずかしい。理由は、ずっとそばにあったのに。
あの頃のルシアン様を、私は知っております。
エリーヌ様の手を初めて取られたとき、その目に迷いはありませんでした。
誠実さを誇るような方ではなく、
ただ当然のこととして、誠実であった。
その方が。
誠実であろうとした人間が、長い時間をかけて、少しずつ別の場所へ流れていく。
悪意ではない。
ただ、居心地の良い方へ。
それは――裏切りと呼ぶには、あまりにも静かな変化でした。
館を後にしてから、しばらくのあいだ、エリーヌ様は何もおっしゃいませんでした。
やがて、ふと視線を落とされる。
「……向き合い続ける、という選択もあるのね。」
その声音は、静かでした。
けれど私は、その静けさの奥に、
わずかな疲労のようなものを感じました。
終わらせることもできず、
割り切ることもできず、
ただ続けていく。
それは、きっと――
最も穏やかで、最も消耗する形なのでしょう。
エリーヌ様は、窓の外に目を向けたまま、
小さく息をつかれます。
「……想像できてしまうの。」
その言葉は、誰に向けられたものでもありませんでした。
「この先、同じように、
答えの出ないまま、
向き合い続ける自分の姿が。」
ほんのわずかに、唇が歪む。
「きっと、苦しいでしょうね。」
沈黙。
そして。
「……もし、あの人が。」
そこまで言って、言葉が止まる。
けれど私は、その続きを理解してしまいました。
――もし、ルシアン様が。
「美しい恋だった、などと。」
その声は、先ほどまでとは違っておりました。
静かでありながら、
確かに拒絶を含んでいる。
「語るのならば――」
わずかな間。
「……私は、耐えられないわ。」
その言葉は、断定でした。
理屈ではなく、
ただの、境界線としての。
私は、その言葉のあとに続くものを、考えずにはいられませんでした。
――耐えられないのは、なぜなのか。
まだ、愛があるからでしょうか。
それとも、長く積み重ねてきた情が、
簡単には手放せないからでしょうか。
あるいは――
この十年という時間そのものが、
音を立てて崩れてしまうように感じられるからか。
どれも、あり得るように思えました。
けれど同時に、どれひとつとして、
それだけでは足りない気もしたのです。
エリーヌ様は、答えを口にされませんでした。
ただ、静かに前を向いておられる。
その姿は、どこか危うく、
けれど、確かに自分の足で立っておられました。
――いずれにせよ。
この問いに、答えを与えられるのは、
エリーヌ様ご自身だけなのです。
誰も、代わることはできない。
どれほど正しい理屈を並べても、
どれほど似た事例を見ても。
最後に選ぶのは、
ただひとりの意思だけ。
だから私は、何も言いませんでした。
ただ、その背を見守ることしか、できなかったのです。




