第5話 契約の夫婦 ―愛さないことの合意―
エリーヌ様がご実家へ戻られたのは、
あくまで穏やかな理由によるものでした。
――ということになっております。
子どもたちには、少し気分転換が必要でした。
ルシアン様も、それを止めはしませんでした。
この地では、結婚は“生活”そのものです。
領地を守り、民を導き、
日々の判断を共にする。
そのために最も必要とされるのは、
感情ではなく――信頼。
だからこそ、
エリーヌ様と公爵様の関係は、
理想とされておりました。
互いに一途であること。
それは、美しいだけでなく、
この土地では“正しい”形でもあったのです。
その理想の中にあって、
少しだけ異質なご夫婦がおられます。
けれど、それを異質だと認識しているのは、
ごく一部の人間だけ。
大半にとっては――
仲睦まじく、穏やかな、理想的なご夫婦。
長く連れ添いながらも、
いまだ子に恵まれない。
それでも離れないのは、
きっと深い愛情があるからだろう、と。
そして、ご主人は“愛妻家”として知られております。
奥方の隣で、いつも穏やかに微笑んでいる。
……ええ。
そう見えるように、成り立っているのです。
応接間に通されると、
お二人は、いつも通り並んで座っておられました。
その後ろに、ひとりの女性。
控えめに立ち、視線を落としている。
――表向きには、小間使い。
けれど、それを口にする者はおりません。
なぜなら。
言わない方が、すべてがうまく回るからです。
「お久しぶりでございます、エリーヌ様。」
ご主人が穏やかに頭を下げる。
奥方も、変わらぬ笑みを向ける。
「変わらず、お元気そうで。」
「ええ、おかげさまで。」
エリーヌ様は、自然に微笑まれました。
「改めて、お伺いしてもよろしいかしら。」
柔らかな切り出し。
「あなた方の結婚について。」
奥方は、ほんの少しだけ楽しそうに目を細める。
「今さら、でございますか?」
「ええ。今だから、ですわ。」
その一言で、場の意味が変わりました。
「私たちは、最初に合意しましたの。」
奥方が静かに語る。
「互いに、相手に求めないことを。」
ご主人が続ける。
「私は、女性に対しても、男性に対しても、
そうした感情を持ちません。」
「私は、女性を愛します。」
奥方の視線が、ほんの一瞬、背後へ向く。
小間使いは、わずかに頭を下げるだけ。
何も特別なことは起きていない。
ただ、役割が配置されているだけ。
「では――」
エリーヌ様が、静かに問う。
「裏切りは、存在しないのね。」
「ええ。」
ご主人は迷わず答える。
「契約に含まれていないことは、
違反にはなりません。」
奥方も頷く。
「期待がなければ、失望もありませんわ。」
私は、その言葉を聞きながら、
奇妙な感覚を覚えておりました。
それは、冷たい理屈のはずなのに。
どこか、揺らがない。
むしろ――
とても、誠実なもののように思えてしまう。
「……誠実ですわね。」
エリーヌ様が、静かにそう言われました。
その言葉に、奥方がわずかに目を細める。
「そうでしょうか。」
「ええ。」
はっきりとした肯定。
「約束したことを、守り続けている。」
「それは、とても誠実なことだと思うわ。」
その声には、皮肉は一切ありませんでした。
ただ、観察の結果としての評価。
帰り道。
エリーヌ様は、長く黙っておられました。
やがて、ぽつりと。
「……ああいう形も、あるのね。」
少しだけ間を置いて。
「最初から求めなければ、
失うこともない。」
その言葉は、静かでした。
理解してしまった者の声音。
「……合理的だわ。」
私は、何も言いませんでした。
ただ、ひとつだけ思ったのです。
――あの方は。
最初から、求めてしまった。
そして、それを前提に生きてきた。
だからこそ。
この形は、理解できても――
選ぶことは、できないのだと。




