第4話 信仰の夫婦 ―敬虔という演技―
あの奥方が屋敷を訪れたとき、
私はまず、「ああ、今日はお説教の日だ」と理解いたしました。
年若い公爵夫人に、人生の“正しさ”を教える。
それは、この社交界では珍しいことではございません。
特に――エリーヌ様のように、
恋愛で結婚してしまった方には。
あれは、この首都においては、美談であると同時に、
互いを唯一とする“未熟な選択”と見なされるのです。
応接間で向かい合った二人は、
実に穏やかに微笑んでおりました。
「本日はお招きいただき光栄ですわ。」
「こちらこそ。急なお誘いにも関わらず、ありがとうございます。」
――表面上は、完璧な礼節。
(訳:今日はどんな相談かしら。かわいらしい悩みだと良いけれど)
と、奥方は思っておられるでしょうし、
(訳:あなたに聞くしかないの。ちょうど良い例ですもの)
と、エリーヌ様は考えておられる。
ええ、どちらも間違ってはおりません。
紅茶が運ばれ、軽い世間話が終わったあと、
エリーヌ様が、そっと本題に入られました。
「……実は、少し悩んでおりますの。」
その声音は、どこまでも控えめで、
まるで本当に助言を求めているかのようでした。
奥方は、わずかに身を乗り出す。
「まあ。どのようなことでしょう?」
(訳:ほら来た。やはり可愛らしい悩みね)
「信仰について、ですの。」
その一言に、奥方の目がわずかに和らぎました。
「……ああ、それは大切なことですわね。」
(訳:それなら私の専門ですわ)
「私は、まだよく理解できていない気がして。」
エリーヌ様は、少しだけ視線を落とされる。
「誠実であることと、信仰に従うことは、
同じものなのでしょうか。」
静かな問い。
奥方は、迷いなく微笑みます。
「もちろんですわ。
信仰とは、正しさの基準ですもの。」
(訳:あなたはまだ、その段階なのね)
「では……」
エリーヌ様は、顔を上げられました。
「正しさとは、選ばなくても与えられるもの、ということでしょうか。」
一瞬、間が空く。
奥方の指先が、カップに触れたまま止まりました。
「……どういう意味かしら。」
(訳:少し、聞き方が気に入らないわね)
「信仰に従えば、誤りは避けられる、とおっしゃるでしょう?」
「ええ、もちろん。」
「それは――ご自身で選ばずとも、という意味かしら。」
空気が、ほんのわずかに変わる。
奥方は微笑みを崩さないまま答えます。
「選ばないのではなく、正しいものを選ぶのです。」
(訳:その程度のことも分からないの?)
「……そう。」
エリーヌ様は、軽く頷かれる。
「では、その“正しさ”に反する行いは、
存在しないのかしら。」
その問いに、奥方の瞳がわずかに揺れました。
「……人は弱いものですから。」
(訳:多少のことはあるけれど、言う必要はないわ)
「ええ。」
エリーヌ様は、穏やかに同意される。
「たとえば――結婚の外で、誰かを愛してしまうようなことも?」
カップが、かすかに鳴った。
奥方は、ゆっくりと微笑む。
「……そのようなことは、表に出すべきではありませんわ。」
(訳:あるに決まっているでしょう。でも、それは問題ではないの)
「誤り、という言い方は適切ではありませんわね。」
奥方は、静かに微笑む。
「結婚とは、まず役割ですもの。
家を守り、子をなし、社会的責務を果たす。」
「それらを損なわない限りにおいて――
個人の感情は、必ずしも結婚の内に収める必要はありませんわ。」
(訳:私はやるべきことはすべて果たした。その上での自由よ)
「むしろ、感情を無理に一箇所に押し込める方が、不健全ではなくて?」
「外で調達することで、均衡は保たれますわ。
夫婦は穏やかに、社会も乱れない。」
「……成熟とは、そういうことではないかしら。」
その言葉は、静かに整っておりました。
「秘密というものは、共有された瞬間に、少し別のものになりますわ。」
奥方は、続けておっしゃいました。
「重荷ではなく——絆に、近いものに。」
――つまり。
私は、その言葉の意味を、すぐには掴めませんでした。
けれど、しばらく考えるうちに、輪郭が見えてくる。
――互いが何を持つか、知っている。
そして、知っていることを、互いに知っている。
その“共有”が、家同士の間に、奇妙な安心を生む。
弱みではなく、信頼の形として。
……そういうことなのだろうか、と。
けれど私には、どうしても、腑に落ちないものが残りました。
エリーヌ様のご実家は、首都から遠い土地にございます。
領地の民と共に生き、夫婦が一枚岩であることを、当然の前提として育つ場所です。
そこでは、婚外の関係を「成熟」と呼ぶ者は、おりませんでした。
少なくとも——私の知る限りは。
だからこそ、エリーヌ様は「誠実さ」を、
ただの美徳としてではなく、
人を選ぶための、唯一の基準として持っておられた。
その基準が、この首都では——「可愛らしいもの」として扱われるのだと。
私がそれを知ったのは、ずいぶんと後のことです。
そして、知ったとき、素直には受け取れませんでした。
エリーヌ様は、しばらく何も言わずにおられました。
やがて、穏やかに口を開かれる。
「……ひとつ、よろしいかしら。」
奥方は微笑んで頷く。
「ええ、どうぞ。」
「あなたは――」
ほんのわずかに、言葉を選ぶ間がありました。
「ご主人に、愛を求めたことはなかったのですか。」
沈黙。
それは、先ほどまでとは質の違う沈黙でした。
奥方は、すぐには答えません。
やがて、ふっと目を伏せて、言いました。
「……忘れたわ。」
窓の外へ、一瞬だけ視線が逃げました。
ほんの刹那のことで、すぐに奥方はまた微笑まれたのですが、私はその一瞬を、見てしまいました。
その声音には、理屈はありませんでした。
ただ、過去を置いてきた人間の、
軽い響きだけが残っておりました。
私は、その一言に、言葉を失いました。
何かが、そこにあったはずなのです。
けれど、それはもう語られない。
――あるいは、語る必要がないほど、
遠くへ行ってしまったのか。
エリーヌ様は、それ以上問いませんでした。
静かに微笑み、カップを置かれる。
「未熟な私に、教えてくださってありがとうございます。」
(訳:今日はここまでにしましょう)
奥方もまた、優雅に微笑み返す。
「いえ。若いうちは、悩むことも大切ですわ。」
(訳:まだ理解できなくて当然よ)
それからは、穏やかな雑談に戻りました。
天候のこと、最近の催し、
どれも差し障りのない話題ばかり。
けれど私は、そのやり取りを聞きながら、
どうしても先ほどの言葉が頭から離れませんでした。
――忘れた。
それは、選んで手放したのか。
それとも、失ったのか。
奥方が帰られたあと、
応接間には静けさだけが残りました。
エリーヌ様は、しばらく窓の外を見ておられましたが、
やがて、誰にともなく呟かれます。
「……けれど。」
その一言は、
先ほどの会話の続きを引き取るものでした。
「見ないことで保たれる誠実は、
本当に“誠実”と呼べるのかしら。」
静かな声。
「忘れることで成り立つ関係は、
どこまで自分のものなのかしら。」
私は答えられませんでした。
ただ、その問いが、
どこか痛みを伴っていることだけは、分かりました。
エリーヌ様は、もう一度、小さく息をつかれます。
「……まだ、わからないわね。」
そう言って、ほんのわずかに微笑まれました。
けれどその微笑みは、どこか以前とは違って見えたのです。




