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結婚哲学入門 ―公爵夫人は裏切りの構造を研究する―  作者: 遠野 周


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第3話 静音という名の異常

 公爵様は、この数日で別人のようにやつれておられました。


 もともと整った顔立ちの方ですから、

 頬が落ち、目の下に影が差すと、かえってその陰影が際立つ。


 ですがそれは、決して美しいものではございませんでした。


 人は、誠実さを失ったとき、

 ああも静かに崩れていくものかと――

 私はただ、遠巻きに観察するほかありませんでした。


 お仕事から戻られても、以前のように真っ直ぐ書斎へは向かわれません。


 廊下で立ち止まり、扉の前で、しばらく動かないのです。


 中に入る勇気がないのか、

 それとも、入る資格がないと理解しておられるのか。


 どちらにせよ、その背中には、

 かつての余裕は一切残っておりませんでした。


 お子様方は、上がリュカ様、下がソフィー様。御年八つと五つ。


 どちらも、ご両親の聡明さを受け継いだ、利発なお子様です。


 だからこそ、私は案じておりました。


 子どもというものは、言葉より先に空気を読む。


 夫婦の間に流れる沈黙の種類が変わったことを、食卓の会話が減ったことを、父親が書斎の扉の前で立ち止まるようになったことを――きっと、感じ取っているはずでした。


 実際、リュカ様はここ数日、夕食の席でいつもより静かでした。


 以前は父君に向かって、学んだことをとりとめなく話しかけていたのに、今は料理を行儀よく食べながら、チラ、と何度も両親の顔を見る。


 ソフィー様はまだ幼く、細かいことはわからないでしょう。


 それでも、母君のそばを離れなくなりました。


 以前は邸の中を走り回るほど活発なお子様でしたのに。


 エリーヌ様は、そのふたりに対して、何も変わらずに接しておられました。


 朝は声をかけ、食事の前には手を繋いで席につかせ、寝る前には本を読んでやる。


 どれひとつとして、欠かすことがない。


 ――だからこそ、私は怖かったのです。


 自分の痛みを感じる前に、子どもたちを守ることで手がいっぱいになっておられるのではないか、と。


 感情というものは、押し込めれば消えるわけではありません。


 後になって、より大きな形で溢れ出す。


 あの方の穏やかさが、決壊の前の静けさでないかと――私はひそかに、そのことを恐れておりました。


 ――対して、エリーヌ様は。


 驚くほど、お変わりないご様子でした。


 朝はいつも通りに起き、子どもたちに声をかけ、書物を開き、紅茶を淹れる。


 動作に乱れはなく、言葉も穏やかで、どこを切り取っても、これまでと何ひとつ変わらない。


 ――それが、私の恐れを、さらに深めるのでした。


 ある日の午後、

 私は思い切って、お声をかけてみました。


 エリーヌ様は、窓辺で本を閉じ、

 少しだけ考えるように目を伏せられたあと、

 静かにおっしゃいました。


「私には、不貞を働く心理がわからないの。」


 その声は、驚くほど澄んでおりました。


 怒りでも、嘆きでもなく、

 ただ事実を述べるような調子で。


「もちろん、不貞を働く人間がいることは知っているわ。


 社交界の一部では、それを成熟の証とする向きもあることは知っているわ。」


 わずかに、間を置く。


「けれど――ルシアンは、理解できない側の人間だと思っていたのよ。」


 そこで一度、言葉を区切られる。


 私は何も言えず、ただその続きを待ちました。


「一般的には、夫婦関係に不満があるから、でしょう?」


 小さく首を傾げる。


「でもルシアンは、それを否定するの。


 何も問題はなかった、と。


 ……愛は、変わらない、と。」


 その最後の言葉だけ、

 ほんのわずかに、温度が落ちました。


 ため息をひとつ。


「信頼を失った語り手の言葉に耳を傾けても――」


 指先が、カップの縁をなぞる。


「私を惑わす言葉にしか、聞こえないもの。」


 沈黙。


 それは、怒りではなく、

 理解を拒絶する静けさでした。


 やがて。


「……理由が、知りたいわ。」


 その一言に、わずかな熱が宿った気がいたしました。


「理解できれば、整理がつくもの。


 整理がつけば――」


 そこで、ほんの少しだけ微笑まれる。


「ええ。ルシアンを、きちんと地獄へ送って差し上げられるでしょう?」


 冗談のように聞こえる口調で。


 けれど、その言葉には、どこか逃げ場のない静けさがありました。


 私は、相槌を打ちながら、胸の奥で、静かに燃えるものを感じておりました。


 怒り、と呼ぶには静かすぎる。


 けれど、そう呼ぶほかないものが。


 エリーヌ様がまだ生家においでだった頃、最初の婚約が破談になったときのことを、私はよく覚えております。


 あの方は三日間、ほとんど食事を取られませんでした。


 声をかけると微笑まれるのですが、その目が、どこか遠いところを見ていて。


 そこへ現れたのが、ルシアン様でした。


 あのときの公爵様は、エリーヌ様に対して、こう仰いました。


 ――僕は、決してあなたを手放さない。


 言葉ではなく、その言葉を支える振る舞いによって、何度も何度も、そう示してこられた方でした。


 だからこそ、エリーヌ様は、震える手を差し出されたのです。


 それが。


 結局は同じことをなさった。


 前の婚約者と同じように、ご自分の都合で、エリーヌ様の手を離された。


 違うのは、婚約前か後か、ただそれだけのことで。


「決して手放さない」と誓った方が、誰より深く傷つける。


 私はそれを、怒りと呼んでよいのかもわかりません。


 ただ、エリーヌ様がどれほど冷静でいらしても、私の中のそれは、静かに、消えることがないのです。


 しばらく、私は黙っておりました。


 エリーヌ様は、窓の外を静かに見ておられる。


 私は、そのとき初めて理解したのです。


 あの方は、壊れておられない。


 ――形を変えて、立っておられるのだと。


 十年前。


 婚約の破談により、深く傷つかれたあの日。


 あのときのエリーヌ様は、

 確かに、悲しみに打ちひしがれておられました。


 人を信じる術を、見失ったように。


 けれど今、目の前にいらっしゃるのは、

 あの頃の少女ではございません。


 母となり、

 時を重ね、

 そして――感情を、扱う術を身につけられた方。


 それが強さなのか、

 あるいは、別の何かなのか。


 私には、まだ判断がつきません。


 ただひとつ、確かなことがあるとすれば。


 この静けさは、

 決して“何も起きていない”静けさではない、ということ。


 むしろ――あの方は、すでに歩き始めておられるのだと。


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