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結婚哲学入門 ―公爵夫人は裏切りの構造を研究する―  作者: 遠野 周


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第2話 幸福の終焉に関する序説

 あの日の夕方、紅茶の香りを変えたことを、私はまだ覚えている。


 幸福というものは、往々にして報告書に書かれることがない。


 人は痛みを語り、失敗を分析し、愛の終わりを文学にする。


 けれど、幸福そのものはあまりに平坦で、記録に残すには退屈すぎる。


 ――私も、つい先日までそう考えていた。


 十年。


 夫ルシアンとの結婚生活は、社交界でも模範と称された。


 慎み深く、知的で、子どもにも恵まれ、邸にはいつも陽の光が差していた。


 侍女が花を生け、夫は仕事帰りに書斎へ顔を出し、

 たまに「君の選んだ紅茶はいつも香りがいい」と笑う。


 それが愛情か習慣かなど、考えもしなかった。


 すべてが、理想的に出来すぎていた。


 そして、出来すぎた幸福は、往々にして、退屈の中で崩れる。


 夫の不倫を知ったのは、偶然だった。


 侍女が落とした手紙を拾い、封を閉じたまま机に置こうとして――指が止まった。


 封筒に、香りがあった。


 花と、それから何か甘いもの。女の使う香水だと、すぐにわかった。


 宛名はルシアンの名で、筆跡は見覚えのある、少し右に傾いた字。


 夫の部下であり、以前から彼に過剰な敬意を示していた若い女のものだった。


 驚きはなかった。


 それが奇妙だった。


 驚きがないということは、どこかで知っていたということだ。


 エリーヌはそのまま手紙を置き、窓の外を眺めながら、自分の記憶を静かに辿った。


 ――いつから、だろう。


 胸元のピンが変わったのは、半年ほど前か。


 シンプルな銀のものを長年使っていたのに、ある朝突然、繊細な金細工のものになっていた。


「プレゼントをもらった」と言っていたが、誰からかは聞かなかった。


 聞く必要を感じなかった自分を、今は少し恥じる。


 書斎の万年筆も変わっていた。


 黒いボディの、使い慣れたものだったはずが、いつの間にか深い青のものに替わっている。


「書き心地が気に入って」と言っていたが、そのペンに彫られた細かな唐草模様を、エリーヌはどこかで見たことがあった。


 ――あの女の、手帳の表紙に。


 そこまで思い至ったとき、はじめて指先が冷えた。


 揃いにしていたのだ。


 夫と、あの女が。


 日常の中に、二人だけの印を刻んで。


 しかも夫は、その万年筆をエリーヌの目の前で何度も使っていた。


 何も知らない妻の前で、別の女との共犯のような小道具を。


 人は理性を持つ限り、痛みを後回しにできる。


 それが、エリーヌの長所であり、同時に欠点でもあった。


 夜になり、夫が帰宅した。


 上着を脱ぎながら、いつものように言う。


「今日は少し疲れたよ。紅茶をもらえるかい?」


 彼女は静かに微笑んだ。


「ええ、もちろん。……それとも、万年筆の彼女の方がお好み?」


 ティーカップを差し出しながら、淡々と問う。


 夫の手が震え、カップの中で茶が揺れた。


 それが、不倫の「告白」に代わる証拠だった。


 長い沈黙。


 やがて、夫が呟くように言った。


「……すまない。ほんの出来心だった。」


「……出来心」


 彼女は静かに復唱した。


 お揃いの万年筆を、一年間使い続ける出来心というものが、この世にはあるらしい。


 エリーヌは首を傾げ、

「出来心」という語が、「誠実」を語っていたのと同じ口から出る奇跡を観察した。


 まるで、珍しい標本を前にしているような気分だった。


 怒鳴りたいほどの怒りも、泣き崩れるほどの悲しみもない。


 強いていうならば——失望、だろうか。


 いや。


 失望、で合っている。


 自身の感情に名前を付け終えると、

 ゆっくりとした思考が彼女を満たしていった。


 ――愛とは何か。


 誠実とはどこから崩れるのか。


 裏切りとは、なぜ“裏切られる側”だけが痛むのか。


 思考が静かに整列していく。


 夫は何かを言い訳のように並べていたが、彼女は聞いていなかった。


 エリーヌは席を立ち、ひとり書斎へ向かった。


 机の上には、いつもの観察ノート。


 子どもの成長を記していたそれを、そっと閉じ、新しい頁を開く。


 タイトルをつける。


 ――『結婚哲学入門』。


 初めて、ペン先が軽やかに走った。


  序説

  結婚とは、理性と幻想の共犯関係である。

  誠実を失った瞬間、幻想は現実となり、理性がその遺体を解剖する。


 文字を書きながら、彼女は不思議な安堵を覚えた。


 怒りを知性に置き換えることは、彼女の生存の方法だった。


 紅茶の香りがまだ漂う部屋で、

 夫は俯いたまま、何も言えなかった。


 エリーヌは、その背中をしばらく見つめてから、

 ふと、小さく息をついた。


「……そう。」


 ほんのわずかに、首を傾げる。


「あなたも、そういう人だったのね。」


 その声音には、責める色はなかった。


 ただ、何かを納得したような、

 静かな確定だけがあった。


 それは、失望というよりも――

 分類に近い。


 やがて彼女は、わずかに微笑む。


「ええ。」


 カップに指先を添えながら、

 穏やかに続けた。


「よく分かりましたわ。」


 その声は柔らかく、

 ほとんど慈悲に近かった。


 夜は長く、

 そして――


 これから始まるものは、

 感情ではなく、思考だった。


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