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結婚哲学入門 ―公爵夫人は裏切りの構造を研究する―  作者: 遠野 周


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1/3

第1話 あの方は幸福でした

婚約破棄をされた令嬢が、誠実な公爵と幸福な結婚をした。

――そういう物語の、続きです。

ハッピーエンドの先に、現実はある。

十年後、公爵夫人は夫の不倫を知る。

怒りも、涙も、なかった。

代わりに、彼女はノートを開いた。

タイトルは、『結婚哲学入門』。

これは、侍女の目を通して語られる、ある夫婦の静かな記録です。

 あの方は、幸福でした。


 少なくとも――私には、そう見えておりました。


 エリーヌ様がこの屋敷へ入られた日のことを、私はよく覚えております。


 ――生家においでの頃から、長くお側に仕えておりますゆえ。


 花嫁衣装の裾を、ほんの少しだけ踏みそうになって、

 くすりと笑いながら振り返ったのです。


「大丈夫かしら、私。公爵夫人なんて、似合うと思う?」


 そう仰って、私の方を見て、少しだけはにかまれた。

 あのときの笑みは、今でも忘れられません。


 身勝手な嘘に振り回され、

 人を信じる術を忘れてしまったような、

 怯えた顔をしていた少女が、

 あんなにも安心した顔をなさるのかと――

 正直、驚いたものです。


 お相手は、年若き公爵ルシアン様。

 容姿も地位も申し分なく、

 社交界では「理想の夫候補」と呼ばれる方でした。


 ですが、エリーヌ様にとって、あの方の本当の価値は、そこにはございません。


 誠実であること。

 そして――エリーヌ様という“人間”を、きちんと見ておられたこと。


 それが、すべてでした。


 若い頃のエリーヌ様は、よく私に打ち明けてくださいました。


「あの人はね、私を“役割”じゃなくて、“私”として見てくれるのよ。」


 そう言って、少し照れたように笑うのです。


 その言葉を、私は何度も思い返しております。


 “役割”ではなく、“私”として。


 それは、エリーヌ様の生家に仕える者にとっても、

 覚えのあるものでした。


 公爵様は、誰に対しても、そういう方だったのです。


 侍女には侍女としてではなく、

 庭師には庭師としてではなく、

 それぞれの名を呼び、言葉を交わし、

 相手の考えをきちんと受け取る。


 ですから、エリーヌ様があの方を選ばれたことに、

 誰ひとりとして疑いを持つ者はおりませんでした。


 ――ああ、この方なら。


 過去にどれほど傷ついたとしても、

 きっともう一度、エリーヌ様も人を信じることができるだろうと。


 実際、その通りになりました。


 公爵様の訪問の度、

 エリーヌ様は、少しずつ笑うようになり、

 以前よりも穏やかな表情で、日々を過ごされるようになったのです。


 あの方は、恋をしておられました。

 それも、物語のような恋を。


 婚約が破談になり、傷ついた過去を経て、

 それでもなお差し出された手を、

 今度は迷わず取った――そういう種類の、確かな選択。


 だからこそ、その結婚は“結果”だったのです。


 情熱でも、打算でもなく、

 選び抜かれた先にある、静かな真実。


 読書のあとに感想を語り、

 子どもが生まれてからは、その成長を嬉しそうに記録し、

 時折、公爵様と議論を交わしては、楽しげに目を細める。

 そのどれもが、静かで、けれど確かな幸福のかたちでした。


 公爵様もまた、変わりませんでした。


 どれほど忙しい日でも、

 必ず一度は奥方のもとへ顔を出し、

 短い時間でも言葉を交わす。


「今日はどんな一日だった?」


 その問いかけが、形式ではなく、

 本当に知ろうとしている声であることを、

 私は何度も耳にしてまいりました。


 ですから――

 私は、信じていたのです。


 このご夫婦は、壊れないのだと。


 誠実さの上に築かれたものは、

 そう簡単には崩れないのだと。


 ……ええ。


 今思えば、それはあまりにも、

 物語を信じすぎた者の、愚かな確信でございました。


 ハッピーエンドの先が現実にはあるのです。


 あの日の夕方も、そうでした。


 エリーヌ様は、いつものように紅茶を淹れておられました。


 窓から差し込む光が、カップの縁で揺れて、

 それはもう、絵画のように穏やかな光景で。


「今日は少し、香りを変えてみたの。」


 そう言って、楽しげに微笑まれる。

 私は、その横顔を見ながら、

 ああ、この方は幸福なのだと――


 何の疑いもなく、信じておりました。


 その数刻後に、

 すべてが変わるとも知らずに。

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