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【完結】結婚哲学入門 ―公爵夫人は裏切りの構造を研究する―  作者: 遠野 周


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第9話 報告書の余白

 「アデル。」


 朝の光の中で、エリーヌ様は静かにおっしゃいました。


「そろそろ、戻りましょうか。」


 それだけでした。


 理由も、説明も、何もない。


 けれど私には、その一言が何を意味するのか、わかりました。


 研究は終わった。


 あとは――彼女自身が、選ぶだけです。


 首都のタウンハウス。


 夕方の帰宅でしたが、公爵様はまだ勤務中でした。


 夜。


 この夜のことを、私はすべて知っているわけではありません。


 ただ、翌朝のエリーヌ様の顔が、これまでと少しだけ違って見えたことは――確かです。


 書斎の扉が閉じられ、机の上に薄い蝋燭の灯り。


「裏切られたのではないのかもしれない。」


 ペン先を止めて、エリーヌ様は静かにおっしゃいました。


「私が愛した人間は、もうあの人の中にいないのかもしれない。」


 少しの間。


「……それが、一番、困るのよね。」


 エリーヌは報告書の最後のページを書き終え、インクを乾かすために少し息を吹きかける。


 外から、気配がする。


 扉の外――廊下の先に、ルシアンがいる。


 呼吸ひとつ、衣擦れひとつでわかる。


 赦しを乞うこともできず、ただ廊下の向こうで立ち尽くしている。


 その姿を、もう何度も感じてきた。


 その夜、エリーヌはふと――自分が安心していることに気づく。


「あの人が、外にいる。


 何も言わず、ただそこに立っている。


 それだけで、世界が静まるのね。」


 それは、かつての愛とは違う。


 心が疼くような情ではなく、


 怒りや軽蔑でもない。


 うまく、名前がつけられない。

 けれど——


 それは――「尊厳の均衡」。


 彼女が彼を赦さず、彼も彼女を壊さない。


 互いに距離を守ることで、二人とも人間でいられる。


 そして、その距離の向こうに、ほんの少しだけ“ぬくもり”がある。


 エリーヌはそれを否定しない。


「愛ではないの。


 けれど、私が安心してしまうのは……


 あの人がまだ、赦しを乞い続けているから。


 尊厳が守られるだけではない、


 そこに、かすかな優しさがあるから――。」


 その“優しさ”こそが、エリーヌの最後の救い。


 理性がすべてを説明できなくなったとき、


 人間としての小さな光が残る。


 彼女はペンを置き、


 報告書の末尾に一文を加える。


 “赦しとは、愛ではなく、静かな共鳴である。


 誰かが自分の外に立ち、沈黙のまま見守っていると知るとき――


 私たちは、少しだけ、生きやすくなる。”


 エリーヌは深く息を吸い、ゆっくりと立ち上がる。


 ペン先を拭い、報告書を閉じる。


 その音が、部屋の静寂をやわらかく揺らした。


 扉を開けると、ルシアンがいた。


 背筋を伸ばして立ち、何かを言いかけては言葉を失い、


 それでも目をそらさずに、彼女を見つめている。


 長い沈黙ののち、エリーヌはわずかに微笑んだ。


 それは嘲笑でも赦しでもない、ただ静かな呼吸のような笑みだった。


「……お茶でも飲みながら、お話ししましょうか。」


 ルシアンは一瞬、息を呑み、


 やがて深く頭を下げた。


「ありがとうございます、エリーヌ。」


 彼女は頷き、踵を返す。


 背中越しに言葉を投げた。


「ただし――理屈は抜きで、お願いしますね。」


 灯りのもと、二つのカップが並ぶ。


 湯気がゆらめき、沈黙がその隙間を満たした。


 言葉はない。


 けれど、沈黙の中に、確かに会話があった。


 エリーヌは紅茶をひと口すする。


 温かい。


 それが何の温もりなのか――


 彼女には、もう名前をつける必要はなかった。


 報告書の余白に、一文が加えられる。


 “赦すとは、再び会話を始めること。


 理屈ではなく、静けさの中で。”


 そして蝋燭の灯が、やわらかく揺らいだ。


 観察は終わり、夜が明けようとしていた。


作中には、いくつか異なる夫婦の形が登場しました。

どれが正解という話ではなく、

エリーヌにとっては、

「自分が辿り得たかもしれない未来」

の観察でもあります。


・信仰の夫婦

“期待すること”をやめた夫婦。

愛ではなく役割を優先し、互いに外で感情を調達する形。

高位貴族社会では、ある意味もっとも洗練された関係です。

エリーヌにとっては、

「期待を捨てれば辿り着けたかもしれない形」でした。


・契約の夫婦

最初から“愛の役割”を分離していた夫婦。

互いに誠実であるために、恋愛と結婚を一致させなかった人たちです。

たぶん作中で一番安定していて、一番誠実な夫婦でした。

ただ、エリーヌとルシアンには、最初から選びようのなかった形でもあります。


・再構築の夫婦

不倫を「間違いだった」と断じきれなかった夫婦。

そこに本物の感情があったことを、互いに認めてしまった。なのに、その不倫を辞めて戻ってしまった。

だから壊れきれず、だから簡単にも赦せない。

エリーヌにとっては、おそらく最も受け入れ難い未来です。

もしルシアンが、「あれは美しい恋だった」と語ったなら、彼女は耐えられなかったと思います。


・破綻の夫婦

相手の尊厳を壊した夫婦。

不倫そのものよりも、

「相手を惨めに扱うこと」をやめなかった人たちです。

現実にも、こういう方は案外います。

極端な例ではありますが、離婚した夫婦をたくさん見ていけば、数十組に一組くらいは、自分を正当化し続け、相手の尊厳を破壊し尽くす人はいると思います。


エリーヌが見たのは、ルシアンがもし誠実さを失い続けていた場合の、ひとつの到達点でした。

だからこそ彼女は、「少なくともルシアンは、これ以上、自分を惨めにしなかった」という事実を、初めて“救い”として認識します。


この物語は、「赦せるか」ではなく、“壊れたあと、人はどう共に在るのか”を描いた話でした。


エリーヌとルシアンがこの後どうなるのか、明確な答えはありません。

もう一度愛し合うのかもしれませんし、最後まで“良き同居人”または"良き両親"のままかもしれません。

あるいは、また別の関係へ変わっていくのかもしれません。


ただ、少なくとも二人は、「壊し合わない」ことだけは選び直したのだと思います。


もしよろしければ、皆さまは二人がこの後どうなったと思うか、感想などで教えていただけると嬉しいです。

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