89 魔女の反撃
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「――お断りいたします」
「…………は?」
その場にひざまずいたまま、カナン殿下は気の抜けた声を出す。私はもう一度深呼吸をして、畳みかけるように告げた。
「お断りいたします、と申し上げました。わたしはあなたの妃にはなりません。わたしはこの国の辺境の民です。辺境を愛しておりますし、大切な人がたくさんおりますので、この国を離れることはありえません」
きっぱりと言い切ってから、もう一度息を吸い込む。
この際だからきちんと言わせてもらう。
「それにわたしは魔女ではありませんし、魔物も育てておりません。あの子はわたしたちの大事な子です。あ、先日無事に生まれました。その節は大変なお世話になりました。おかげでちょっと死にかけましたけど」
殿下が動く様子はないけれど、ちゃんと声は届いているはずだ。目元が震えているのが見える。
私は大切な人を想いながら、心のままに声を張り上げた。
「それに! わたしは初めから申し上げております。心に決めた方がおりますと! その方以外とは絶対に、一緒にはなりません!!」
一気にまくし立てたあと、息を整えちらりと周囲を見る。
参加者たちは呆気に取られたような顔でこちらを見ている。
王族席ではハルジュ様がこちらに走り出そうとしているのを、カレンディア様が止めているのが見えた。
(最後の言い過ぎちゃったかな……)
自分の言葉を思い返して、頬がじわじわと熱を持ち始めたとき――
「それが君の本性か……」
カナン殿下が呟いた。
はっと視線を戻すと、立ち上がった殿下と目が合った。
殿下の表情に、私は息をのむ。
その瞳は光を失い、どこまでも闇が広がっていた。
目を細め口元を歪めて笑った殿下は、すぐに笑みを消し、悲痛な声を上げた。
「なんということだ……やはり彼女は魔女だった! 気の弱いふりをして同情を誘い、魅了の魔術で思考を操る……レオシード殿下と同じ罠に、僕もかかっていたようです」
殿下は私を見て怯えるように身をすくめ、参加者に向かって叫ぶ。
「僕は辺境で彼女の魅了を受けました! そしてここに招待するように暗示をかけられた。それは……王都に魔物を放つためだったのです!」
「なっ……」
その直後、会場内が騒然とし始めた。
とっさに言葉が出てこず、慌てて周囲を見回す。
悲鳴を上げる人、罵声を飛ばす人、パニックになる人……
国王陛下やハルジュ様は警備兵に指示を出し、参加者たちを落ち着かせようと動いていた。
しかし、何百人もいる参加者はすでに混乱の渦に陥っている。
もう私たちを見ている人は誰もいない。思わぬ状況に立ちすくんでいると、カナン殿下はくつくつと笑った。
「これで、君の居場所は本当になくなるね……。人は簡単に惑わされる。都合のいいものを信じて、見たいものだけしか見ようとしない。君の大切な人たちとやらは、何が起きても絶対に君を信じてくれるの? ここにいる人間のようにはならない? ……本当に?」
「それは……っ」
「ほらね、君も本心では信頼なんかできていないんだよ。都合よく信じていたいだけだ。その点、僕は何があっても君の手を放すことはしないよ。……僕のためにね」
言葉に詰まった私の隙を見逃がすわけもなく、殿下は甘い声で責め立ててくる。
手を氷水に浸したかのように、指先から感覚がなくなっていく。私は指先を確かめるように、胸の前で手を組んだ。
その手に指輪がないのを目ざとく見つけた殿下は、憐れむような顔をする。
「おや……あんなことを言っていたのに、君が心に決めた『指輪の人』も、やっぱり離れていってしまったんじゃないか。かわいそうに……。僕がもっと大きな指輪を贈ってあげるよ。幸せな夢だけを見られる……黒くて美しい指輪だ」
——その言葉を聞いた瞬間、私の中で何かが弾ける音がした。
私に向かって伸びてきたカナン殿下の手を払いのけ、後ろにあとずさる。
「違います」
「え?」
払いのけられた手を押さえて目を丸くする殿下に、もう一度はっきりと告げた。
「あの方は、最後まで味方でいてくれる。それだけは……絶対に信じられる」
訝しむ殿下をまっすぐ見据え、震える拳を握りしめる。
「誰に何を言われても……大勢の人に蔑まれたって構いません。わたしには信じてくれる人が……聖霊たちが側にいる。だからあなたの手は取りません。何があっても」
私の言葉を聞いた殿下は、美しい顔を嫌悪に歪めた。
「はっ、聖霊なんて……いったいどこにいるんだ? そんなおとぎ話を都合よく信じているこの世界は異常だ」
カナン殿下が忌々しげに目を細める。
でも、その澱んだ視線は私ではなく、もっと別のところを向いているようだった。
「聖霊王? そんな不確かなものが国を守っていると都合よく信じて、平和だなんだとのんきにうたって……国を奪われない保証はどこにあるんだ? だから僕は身を挺して世界に現実を教えてあげるんだよ。油断していると……国を奪われてしまうんだって」
私は殿下の言葉が理解できなかった。
聖霊が見えない人が、聖霊を信じられないのはわかる。でも、聖霊王の守護まで疑って、それを国を奪うことで証明しようとするなんて……。
「……まあいいさ。人は都合のいい方を信じる。今みんなが信じるのは……僕だ」
カナン殿下はため息をつくと、ホールの喧騒をかき消すほどの大きな声を出した。
「これは国の乗っ取りを企む魔女の陰謀だ! 魔物を育てていることも白状した! 早く捕えてください!!」
会場が一瞬にして静まった。
無数の焼けつくような視線が私に突き刺さる。
静寂が訪れたホールの中、ふいに誰かの声が聞こえた。
「……魔女め」
ぞくり、と背筋が粟立つ。
「ここから消えろ!」
その言葉をきっかけにして、憎しみ、恐怖、怒り……負の感情が一気にホールを飲み込んでいく。
「国を乱す犯罪者だ!!」
「大罪人を許すな!!」
「この国から出ていけ!!」
「いや、処刑だ!!」
ここで私が否定しても、誰も信じないだろう。
言葉の暴力を一身に受けて、恐ろしくてたまらないのに……逃げたいとは思わなかった。
(考えろ……ここからわたしができることを……)
罵声が飛び交うホールの中で、うっすらと笑うカナン殿下だけをまっすぐにらみ据えた。
その時だった。
私が大好きな、深く穏やかな香りが、ふわりと香った。
温かくて大きな手が私の腕を優しく掴み、そっと後ろに引き寄せる。
「ハルジュ様……」
心がゆるやかに凪いでいく。
カナン殿下がいつもの優しげな顔をして、ハルジュ様に声をかけた。
「ハルジュ殿。しっかり捕えておいてください。その魔女を――」
「彼女を魔女と呼ぶな」
地を這うような低い声。大声を出しているわけではないのに、ハルジュ様の放つ威圧感がホール全体の空気を震わせる。
あれだけ飛び交っていた罵声がぴたりと止んだ。
私ですら鳥肌が立つほどの圧倒的な気迫を前にして、カナン殿下は言葉を失っていた。
「彼女は魔女ではない。……もう、いい加減にしろ。私たちはリナリエを疑ったりしない」
私の腕を掴むハルジュ様の手に力がこもる。けれど、絶対に私に痛みを与えることはない。
さっきまで胸の内にあった恐怖は、跡形もなく消えていた。
私は彼の手にそっと自分の手を添える。
ハルジュ様と視線が重なると、新緑の瞳に宿していた激しい怒りが、ふっと和らいでいくのがわかった。
「私にはあなたが我が国を陥れようとしているようにしか見えない。民をあおるのは無駄だ。もう諦めろ」
ハルジュ様が淡々と告げる声を聞いて、参加者たちは戸惑い始めたようだった。
カナン殿下は想定外の事態に苛立ちをあらわにし始めた。
「……そうですか。まさか、ハルジュ殿まで魅了の魔術にかかっているとは……! もう誰でもいい! この魔女を捕えよ!!」
こらえきれず声高に叫ぶ殿下の呼びかけに、すぐに反応する人たちが現れる。国王陛下の待機命令を無視して動き出す兵もいた。
彼らはふらふらとこちらに近づいてくる。目は虚ろで生気がない。
湖で見た領民たちの姿と同じだった。
(やっぱり間違いない。彼らは魅了の魔石を持っている。魔石の主は――カナン殿下だ)
私とハルジュ様は操られている人たちを誘導するように、じりじりと移動を始めた。
魔石を持っているだろう人たちは、参加者の半分ほどにも及んでいた。
カナン殿下を見ると、私たちが貴族相手に力をふるえず攻め悩んでいると思ったのか、勝ち誇ったように笑っている。
(このときを待っていたのはこっちよ……!)
操られた人たちがフロアの中ほどに集まったのを確認して、私は大きく息を吸う。
そして、ホール中に響き渡る声で叫んだ。
「トルト! 聖霊たち! 出番だよーーー!!」
――反撃開始だ!




