88 ファーストダンスの相手
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ホールは参加者たちの賑やかな声であふれていた。
ハルジュ様とカレンディア様は王族席へと戻り、私とノクスさんは壁際で静かにそのときを待った。
しばらくすると音楽が止んだ。楽団が次の曲の準備を始める。
すると国王陛下と歓談していたカナン殿下が、壇上の中央に向かって歩き始めた。
参加者たちはカナン殿下に気づき、壇上に注目が集まる。私はカナン殿下から目をそらさなかった。
殿下はフロアの参加者を見渡し、おもむろに口を開いた。
「本日はこのようなパーティを開いていただき、ありがとうございます。この留学で貴国の素晴らしさを目の当たりにし、我が国に足りないものはまだまだあると思い知らされました。多くの学びをいただいたこと、感謝申し上げます——」
カナン殿下は甘く響くテノールで、参加者たちの心を引き込んでいく。
「——留学中の三年間で、数多くの素晴らしい出会いもありました。僕は王族として、良き臣下……そして良き伴侶とともに、我が国の未来を守っていかなくてはなりません。そこで今日は……僕の希望で、ある方を招待させていただきました」
遠くにいるはずなのに……カナン殿下と、目が合った。
心臓の音が、耳の奥で鳴り響いている。
「リナリエ嬢……こちらへ」
殿下の呼びかけと同時に、ホール中の視線が私に向いた。
「そうきたか……」
ノクスさんの低く呟く声が聞こえた。
私はノクスさんに向かって目線だけでうなずき、殿下の元へと歩を進める。
「……魔女だ」「偽物聖女が……」「なんで……」
私が進むたびに、目の前の道が開けていく。
冷たい視線と侮蔑の混じったささやきが、道の両側から投げつけられる。
それでも、顔を上げ続けた。
私はカナン殿下の後ろ、奥の王族席に視線を向けた。
ハルジュ様とカレンディア様が険しい顔でこちらを見つめている。
(……ここからだ)
引きつれそうになる喉で、深く息を吸う。
私は口元に微笑みを浮かべ、カナン殿下の前に立った。
「静粛に」
殿下が告げると、ホールのざわめきはぴたりと止んだ。
「僕はリナリエ嬢と出会い、彼女の献身と美しい力に感銘を受けました。この国では魔女だと噂されているようですが……僕は彼女を信じています。リナリエ嬢、どうか僕とファーストダンスを踊ってくれませんか?」
「……喜んで」
豪華に装飾された王族衣装に身を包んだ殿下が、優雅に微笑んで手を差し出してくる。
殿下の企みを知ったうえで聞けば、紡がれた言葉は心にもないことばかりだとわかる。
私は貼りつけた笑みのままその手を取り、ホールの中央へと移動した。
カナン殿下の手が背中に添えられる。向かい合う形になると、楽団がワルツを奏で始めた。
「リナリエ、今日は来てくれてありがとう。君ともう一度、どうしても話がしたかったんです」
殿下が軽やかにリードを保ちながら、優しく話しかけてくる。こんなに間近にいても、悪意の欠片も感じない。
「こちらこそ……お招きいただき光栄でございます」
私は何も知らない顔をして、にこりと微笑む。
「今日は一段と美しい……きっと我が国のきらびやかな衣装も似合うのでしょうね」
「……ありがとうございます」
ふわり、ふわりと、殿下がターンをするたびにドレスが広がる。銀糸の刺繍がシャンデリアの光を反射して、星が舞うかのようだった。
(この景色は、ハルジュ様と見たかったな……)
心の中で愛しい人のことを考えていると、殿下がゆっくりと口を開いた。
「……辺境の森が、緑を取り戻し始めたと聞きました。それも、君が?」
(――きた)
私たちは、カナン殿下はあれから辺境で起きたことを聞いてくると予想していた。
せっかく卵を処分したはずが……辺境の呪いが解けるという想定外の事態になっているのだから。
私は小さく息を整え、笑顔で答える。
「すべては聖霊王様のお導きです」
「聖霊王か……」
カナン殿下がぽつりとこぼす。その声にはわずかに、不快な色がにじんでいる気がした。
「そういえば……あの卵はどうなりましたか?」
素知らぬ顔でたずねる殿下に、私は微笑んだまま静かに返した。
「それは……殿下もよくご存知ではありませんか?」
添えられた殿下の手がぴくりと揺れる。
「……君は何か知っているのか?」
殿下の声色があきらかに固くなる。私は気がつかないふりをして、首を小さく傾げた。
「……? 何かとは、何でしょうか。実は……あれから卵が行方不明なんです。あのままでは死んでしまうのに……」
私はできるだけ悲しい声を出した。
すると、殿下の声色がわかりやすくゆるむ。
「そうか……君には申し訳ないのですが、少しほっとしました。あの卵は本当に危険だったから……このまま、朽ちてくれればいいんだが」
そう言った殿下の口元が、ターンの直前で不自然に歪んだのを、私は見逃さなかった。
(カナン殿下は黒だ)
確信に近いものを感じて、私はもう一歩踏み込んだ。
「あの……わたしが魔物の卵を育てていると、王都で広まっているそうです。殿下は……ご存知でしょうか?」
「……ああ、その話なら……」
私が縋るような目で見ると、殿下は一瞬目を泳がせたあと、すぐに眉を下げてこちらを見つめた。
「僕も聞きました。もしかしたら……僕が王都の街で『リナリエが黒い卵を育てていたので、魔物の卵かもしれないと助言をした』とついこぼしてしまったのを……誰かが勘違いしたのかもしれない」
そう言って殿下は目を伏せる。
「原因を作ったのは僕の可能性があります。すみません……」
私は首を振って苦笑を浮かべる。
「いえ……わたしが悪いのです。昔から自分の意見を言えなくて、うつむいてばかりで……だから、勘違いさせて当然なんです……」
そう言うと、殿下の腕の力がわずかに強まり、私の体が引き寄せられた。
「君は優しい人だ……やはりこの国に君の居場所はないのでは? 我が国へ来れば、そんな思いはさせない。君の価値をわかっていないこの国が、君を所有するのは間違っている」
「……ありがとう、ございます。そう言っていただけて……とても救われます」
深く憤るような表情を浮かべ、殿下が至近距離で私を見つめる。
私は必死で顔をそらさずに、声を詰まらせながら返事をした。
そこで――ようやく曲が終わった。
私にとっては永遠かと思われるほどの長い時間だった。すぐに殿下の腕から抜け出し、淑女の礼をとる。
このあと私たちはフロアを出て、パーティの参加者たちと交代する……はずだった。
しかし、私とカナン殿下はその場を離れなかった。
なぜなら――殿下が私の手を取り、ひざまずいたからだ。
その姿に気がついた参加者たちが、これから起こることを見逃すまいとこちらに注目し始めた。
ホールのざわめきが静まる。
「やはり君は僕と来るべきだ。君の魅力に抗うことなどできはしない。リナリエ、どうか僕の妃となってもらいたい」
殿下の声がホール中に響き渡った。
一拍の静寂のあと、周囲からはどよめきが沸き起こる。
「今夜王子が妃を選ぶ」という噂を聞いていた令嬢たちの悲鳴も聞こえてくる。
「……っ」
唐突な言葉に、私は一瞬たじろいだ。
カナン殿下の瞳の奥に宿るのは、愛しい人に向ける情熱なんかじゃない。勝利を確信する冷ややかな光だった。
殿下は逃げ場をなくし、私が断れない状況を作り上げたのだ。
私が引っ込み思案の流されやすい令嬢だから。
――そう、以前の私なら。
うつむいて、ゆっくり息を吐いた。
ホールにいる全員が、固唾を飲んで私たちを見つめているのがわかる。
歓喜に震えるように肩を震わせ、たっぷりと息を吸った。
耳の横で揺れる青水晶が、チャリ、と音を立てる。
私は顔を上げ、満面の笑みを浮かべ、会場中に響きわたる声で高らかに告げた。
「――お断りいたします」




