87 勇気の出る言葉
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国王陛下たちの入場が宣言され、参加者の意識は会場の中央へ向かう。
私とノクスさんはそっと後方へ下がり、壁際に身を寄せた。
まだ指先が震えている。私は震える手を押さえ、ホール中央の壇上を見つめる。
参加者たちは貴族の礼をもって王族を迎える。
国王陛下に続いてほかの王族がホールに入り、最後に主賓のカナン殿下が堂々と入場した。
ハルジュ様はカレンディア様とともに、王族席から様子をうかがっている。
全員が入場すると、国王陛下が参加者の前に立ち、口を開いた。
「今宵はカナン殿下の送別パーティだ。彼は三年もの間、留学生として学びながら、我が国とカルミノード王国との友好の架け橋となってくれた。その功績は計り知れない。今後ますます両国の絆は強固なものになるだろう――」
国王陛下がカナン殿下を紹介している間、カナン殿下は穏やかに微笑んでいた。その表情からは、とても魔が刺しているようには見えない。
陛下の挨拶が終わると、会場は大きな拍手に包まれる。
――パーティが始まった。
王城の楽団が軽やかに音楽を奏で始め、参加者たちはこぞって王族や殿下へ祝辞を述べに向かう。
今日のパーティに私が挨拶できる参加者はいない。
もともと会話ができる知り合いはいないし、今日は父も来ていない。
父のメルダール伯爵とカレンディア様のお父様のゼレニテ公爵には、何が起こるかわからないので欠席してもらったのだ。どちらも理由を聞かずに承諾してくれた。
そして今回、私はなるべく目立たないようにと、王族の方々への挨拶は免除してもらっている。そのためカナン殿下もまだこちらには気がついていないようだった。
今はホールから少しでも離れていたい……。私とノクスさんは人目につかないように、人気のないテラスへと静かに移動した。
群青色の空に星が瞬き始め、薄い雲に隠れた夕月が柔らかな光を放つ。
テラスに置かれたランプが、夕暮れの中で幻想的に輝いている。
私は黙ったままノクスさんから離れ、テラスの柵の前に立った。
ホール内の熱気でほてった体に、秋の風が心地よいはずなのに……私は小刻みに震えていた。
ホールに入った瞬間にぶつけられた、敵意のこもった視線や言葉が頭から離れない。
今の自分なら大丈夫だって思っていたけれど……実際はそう簡単に乗り越えられるものではなかった。
(このまま、逃げてしまえたら……)
一瞬、そんな考えがよぎる。
(余計なことは考えずに、作戦のことだけを考えよう)
目を閉じて、自分を抱きしめるように両腕を回した。
そのとき——
背中にふわりと温かなものが掛けられた。この清らかな森の香りは……。
「ここは思ったより冷えるな……待たせてごめんね」
低く深みのある声が、私の心を静かに震わせる。
「もう、挨拶はいいんですか?」
(今のわたしの顔……きっと見せたら心配させちゃう)
私は振り返らずにハルジュ様にたずねた。
「必要な人には済ませてきた。あとはみんな殿下に夢中だ。予想以上に魅了の魔石を持っている者は多いかもしれないな。……リナリエ、どうした?」
ハルジュ様の声が固くなる。私の様子なんてすぐに見抜かれてしまった。
私はうつむいて、ハルジュ様が掛けてくれた上着の合わせを抱き込んだ。
「わたし……うまくできるでしょうか」
不安な気持ちがぽろりとこぼれ落ちる。
本当は自信なんかない。カナン殿下と向き合うのも、悪意ある視線に立ち向かうのも。
こんなにも憎まれている私が、このままハルジュ様の隣に立っていいのかだって……。
今までの私は、自分の気持ちを伝えることもできない臆病な人間だった。
前世を思い出して、辺境で生活する中で、少しずつ自信を持てるようになってきたつもりだ。
けれど、カレンディア様のような才能はないし、芯が強いわけでもない。
再生の聖術が使える以外は、ありきたりな生き方しかできない普通の人間だから。
(この国を守るために戦うなんて……本当にわたしにできるの……?)
そう、思っていたのに——。
空気がふわりと首筋をなでたかと思うと、優しいぬくもりに背中から包み込まれた。その腕の中に包まれていると、ハルジュ様の香りがいっそう強くなる。
私の身体から、ゆっくりと力が抜けていく。
「不安なら無理しなくていいよ……方法はほかにもある。私は君の心のほうが大切だから、つらい思いをしてまで頑張ってほしくない。君にはいつでも笑顔でいてほしいんだ」
背中越しに響くハルジュ様の声に、胸の奥から熱いものが込み上げてくる。
忘れてかけていた敵意に当てられて、弱気になっていた。
私には譲れないものがある。
聖霊とともに生きる辺境の地。そこで帰りを待ってくれている人たち。
大事に大事にしてくれる……愛しい人。
全部、私が見つけた大切な宝物だ。
国を守るとか、そんな大きなことを考える必要なんてなかったんだ。
(この幸せを守るために……こんなところで怖気づいてどうするの……!)
――不安はいとも簡単に、私の中から消え去っていた。
「……ハルジュ様は、わたしを甘やかしすぎです」
「ええ? 普通だと思うけど」
くすくすと笑うハルジュ様の鼓動が、背中越しに伝わってくる。
(じゃあもう少しだけ、甘えてもいいかな……)
「……勇気の出る言葉をください」
私は振り返り、自分より高い位置にあるハルジュ様の顔を見上げた。
薄暗闇の中、ハルジュ様の新緑の瞳がランプの光を受けて輝いている。
大きく見開かれた彼の瞳が、私の金色の瞳の光を映していた。
「っ……! ああもう、君は……!」
ハルジュ様が急に腕の力を強めた。伝わってくる鼓動が速度を上げる。
ハルジュ様の上着がしわになってしまう、慌ててそう声をかけようとしたときだった。
「——リリ」
「っ!!」
耳元でささやかれた名前を聞いて、雷で打たれたように電流が身体を駆け抜けた。
(わたしの……前世の名前)
それは誰も知らないはずの名前だった。
「リナ」でも「リエ」でもない——もうひとつの大切な名前。
たとえ偶然だったとしても、この世界でその名前を呼んでくれたのは……ここにいる、ただ一人。
前世の自分も重なって、苦しいほどの愛しさが募っていく。
「私は君の本当の強さを知っている。君の不安は私がすべて受け止めるから、君は前だけを向いていればいい。絶対にうまくいく。それでもだめだと思ったら……私が必ず助けにいくから――」
(この台詞……!)
言葉が途切れ、吐息が首筋に触れる。
ハルジュ様の唇が、私の耳をかすめた。
「――リリ、愛してる」
その瞬間、全身が甘くしびれるような感覚に襲われた。
前世の私が一番好きだった、ハルジュ様の台詞――弱気になったとき、何度も勇気をもらった魔法の言葉だった。
そして最後は……今の私だけの、特別な言葉になった。
(この人がいれば……もう、何も怖くない)
私の中で、何かが吹っ切れた。
「勇気出た?」
「……うん」
「よかった」
くすっと笑う声とともに、ハルジュ様の腕がゆるんだ。
離れていくぬくもりが、もう名残惜しい。
私たちから少し離れたところでは、カレンディア様とノクスさんが身を寄せ合っている。あの二人にとっても、今日は未来をかけた大事な日になる。
「さあ、中に入ろう。そろそろダンスタイムだ」
私たちの作戦はここから始まる。
いよいよ決着のときだ――
私は再びホールに足を踏み入れた。




