76 リナリエ【ハルジュ】
ハルジュ視点です
<ハルジュ視点>
「リナリエーーーー!!」
静止する間もなく湖に飛び込んだリナリエを見て、私の心臓は凍りついた。
気を取られた隙に男は走り去っていく。
仕留め損ねた男のことなど、もう頭にはなかった。
私はすぐにリナリエの後を追って湖に飛び込んだ。
暗い湖は目の前の視界すら奪い、抵抗のない黒い水では前に進んでいるのかもわからない。
必死に目を凝らしてリナリエの気配を探した。
すべてを塗り潰す黒い視界の中、ひと粒の光を見た。
それは私が彼女に渡した指輪だと直感が告げる。
まばたきすれば消えてしまいそうな小さな光。そこに向かって死に物狂いで手足を動かす。
ようやくその光を掴んだ瞬間、体が反転するように湖の奥深くへ引きずり込まれた。
私はリナリエを抱き寄せて抱え込んだ。
強い衝撃が体を襲い、空気が顔に触れるのを感じたあと、私は意識を手放した。
◆◇
――目を開けると、そこは真っ白な世界だった。
体の痛みは消えており、それどころか体の奥から力があふれてくる。
きっとリナリエが私に聖術を使ったに違いない。
しかし、そのリナリエは側にいなかった。
周囲はただ白い視界が果てしなく続いている。
ここはどこかという疑問よりも、彼女がいないという焦りが私を突き動かした。
私はリナリエを求めて走った。
どんなに叫んでも彼女の返事は返ってこなかった。
彼女の名前を呼びながら走り続けていると、遠く向こうに小さな影が見えた。
そこに向かって懸命に走り続けた。次第に影は形を作り、色をつけていく。
近づくと、そこは真っ白な空間に突如現れた森だった。木々は青々とした葉を茂らせ、草花は地面を彩っている。
そこはまるで……リナリエが黒の森を緑に変えたあの場所のようだった。
木立の隙間から森の中が見え、私は大きく息を吐いた。
(……よかった。リナリエがいる)
彼女は森の倒木を椅子代わりに、聖霊たちと戯れていた。
「リナリエ!」
私は彼女に声をかけ、森の中へ足を踏み入れ……
「――っ!!」
その瞬間、弾かれるように体が押し戻された。
もう一度試みたが同じだった。
体当たりをしても、剣で切り払おうとしても変わらない。まるで見えない壁がそこに存在するかのように、私が森に入るのを拒んでいる。
「リナリエ!!」
叫ぶように彼女の名前を呼ぶと、彼女はこちらに気づき、金色の瞳を丸くして私に呼びかけた。
「ハルジュ様! どうやってここに?」
「君を探していたらここにたどり着いたんだ。それより……ここから森の中に入れない」
彼女は愛らしい笑みを浮かべて首を振った。
「それはそうです。ハルジュ様はこちらには来れません」
「え……?」
リナリエは座っていた倒木から飛び降り、笑顔で手を大きく振った。
「ハルジュ様! 今までありがとうございました。わたし……辺境に来て本当によかった。ハルジュ様に会えて……幸せでした!」
心臓が早鐘を打ち始める。言葉に詰まって返事ができない。
(どういうことだ……? どうしてそんな、別れの言葉みたいなこと……)
「わたし、創世神様のところに行くことになりました。わたしが創世神様のところへ行けば、辺境に緑がよみがえるそうなんです! だから、わたしがいなくても……もう大丈夫ですからね!」
リナリエの屈託のない笑顔を見て、私は頭の中が真っ白になった。
(リナリエが創世神の元へ行く? リナリエがいなくなる……? どうして突然そんな話になるんだ……!)
「ま……待ってくれ、リナリエ……! それは……どういう意味だ……」
私の声は、もう彼女には聞こえていないようだった。
どんなに手を伸ばしても彼女には届かない。
リナリエは一度だけ頭を下げて、聖霊たちと楽しそうに木立の陰へ消えていった。
「待って!! リナリエ!! リナリエーー!!」
◆◇
――再び目を開けると、そこは真っ白な世界だった。
飛び起きてあたりを見回すと、先ほどの森ではなく、白い石でできた洞窟だった。
「ハル!」
私の周りに聖霊たちが集まってくる。
あの恐ろしい夢を思い出すと、まだ息が詰まる。聖霊がいてくれることが、これほどまでに心強く感じられるとは……。
「ハル……リナが待ってる」
聖霊の言葉に私はすぐに立ち上がった。一刻も早く彼女の無事をこの目で確かめなくては気が気ではない。
白い石柱が立ち並ぶ通路を駆け抜けると、広い空間に出た。白い洞窟の奥にはたくさんの聖霊と白い像が見えた。
その足元にはひとつの影。
「――っ!! リナリエ!!」
創世神の像の足元に横たわるリナリエに駆け寄り、傍らに膝をついた。
彼女は眠っているようにしか見えない。
ただ……もう、息をしていなかった。
何も、考えられなかった。
「リナね……今、おうさまのところにいるの。呼ばれたから、行っちゃった」
プティが淡々と告げる残酷な答えに、私はすべての世界が足元から消えてなくなっていくのを感じた。
「――だめだ!! 絶対に行かせない!!」
気が狂いそうになりながら、無我夢中でリナリエに息を吹き込む。
鼓動を呼び戻そうと、小さな体では折れてしまいそうなほどの力を込めて、両手で胸を押し続けた。
鼻の奥がしびれて、喉が焼けるように熱い。
ただひたすら、彼女を取り戻すことだけに執念を込めていた。
しかし……何度繰り返しても彼女は目を覚まさなかった。
「リナリエ……行かないでくれ。私を置いていかないで……」
横たわる彼女を震える腕で抱きかかえた。
どんなに強く抱きしめても彼女の鼓動は伝わってこない。ただ人形のように、力なく腕の中に収まっているだけだった。
「頼む。まだ……君に、何も伝えていない……」
――私は本当に馬鹿だ。
愛する女性に「愛している」と伝える勇気もない愚か者のくせに。
何が「必ず守る」だ。
結局……守れなかったじゃないか。
リナリエのためだとカレンディアの提案を承諾した時点で、私は取り返しのつかない選択をしていたのだ。
後悔してももう遅い……彼女の笑顔を見ることはもう二度とできない。
こらえきれずにこぼれた涙がリナリエの顔に落ちて流れる。まるでリナリエが泣いているようで、さらに胸が激しく締めつけられた。
「リナリエ……」
辺境に連れてくるんじゃなかった。
もっと早く家に帰してやればよかった。
私が彼女を好きにならなければ――
そこまで考えて思考を止めた。
……違う。
私の今までの選択がすべて間違いだったとしても、リナリエを愛したことだけは絶対に間違っていない。
「もう、本当に……終わりなのか……?」
リナリエの冷たくなった額に自分の額を合わせて目を閉じた。
思考が鈍くなり、絶望に心が黒く染まっていく。
(このまま魔に飲み込まれるのもいいかもしれない——)
そんな愚かな考えが頭によぎったときだった。
「みゃあ」
突然、生き物の鳴き声が聞こえてきた。
虚ろな頭で鳴き声のした方を見ると、リナリエの足元に青い生き物が丸くなっていた。
その生き物は透き通るような青い鱗が全身を覆い、長い尾の先だけが黒く染まっている。
淡い青緑色のたてがみには、辺境伯家の証である青水晶の飾りが揺れていた。
子犬ほどの大きさの見たことのない不思議な生き物……いや、私はこの生き物を知っている。
アズロアの紋章、それに聖堂、絵本の中で——
青い竜の傍らには、割れたガラス玉のようなものが転がっていた。
「お前……」
青い竜は緑と金の瞳で私をじっと見つめると、リナリエの膝の上によじ登った。
「おい……!」
止めようとする間もなく、リナリエの上に乗った竜は、口を大きく開けて「けふっ」と何かを吐き出した。
すると真っ白な光が現れ、リナリエの胸の中に吸い込まれていった。
「何を――!!」
私は言葉を失った。
胸の中に吸い込まれた光が、命の灯をともすように、彼女の止まった時を再び動かし始めた。
氷のように冷たかった体はぬくもりを取り戻し、胸は規則正しく上下している。
私は祈るような思いで彼女に縋りついた。
(頼む、戻ってきてくれ……)
「リナリエ……!!」
私の声に応えるように、彼女の美しい金色の瞳を隠し続けていた、まぶたが震えた――




