75 森の中
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「リナリエ」
ハルジュ様に名前を呼ばれたような気がして、はっと目を覚ました。体を起こしてみても痛みはなく、苦しくもない。
(わたし、どうなったの……?)
周りを見回してみると、そこは真っ黒な洞窟ではなかった。
みずみずしい緑の葉を茂らせた木々に、草花は地面を埋め尽くすように咲き誇っている。
生命力あふれる深い森の中にいた。
ただし……木々の隙間から見えた向こう側は、真っ白な空間だった。
見上げても空は見えず、白い世界が広がるばかり。まるで真っ白な部屋の中に、森の舞台セットを作ったかのようだ。
周りにプティたちも謎玉ちゃんも……誰もいない。
立ち上がることもできずに放心していると、突然背後から声がした。
「起きたかえ?」
誰もいなかったはずなのに人の声が聞こえ、心臓が大きく跳ねる。
振り向くと、苔むした倒木を椅子代わりにして、人外めいた美しい人が足を組んで座っていた。
白い法衣のような衣服を纏い、青緑色の髪は地面に届くほど長い。
よく見ると、袖口から見える手とむき出しの足は、驚くほど青く澄んだ鱗に覆われている。鋭い爪まで持っていた。
最も惹きつけられたのはその瞳――
左の瞳はハルジュ様と同じ、鮮やかな新緑。
右の瞳は私と同じ……輝く黄金色を宿していた。
外見のすべてがその人は人間ではないと示している。
でも、不思議と恐怖は感じなかった。
「そなたは無茶ばかりするのう。今回はそれで助けられたが」
再びその人が口を開いたけれど、状況が理解できていない私は慌てて問いかけた。
「あの! ここはどこですか? あなたは……?」
「ここはこの世であり、この世ではないところ」
謎かけのような返事が返ってきて、私は頭を抱えた。
「この世ではない……。わたしは、死んだの……?」
「まあ……魂は体にはないかの。今のところは」
「そ、そんな……」
あっさりと肯定され、希望をつなぎとめていた最後の一本の糸が、ぷつりと切れる音がした。座ったまま、もう動く気力も出ない。
うなだれる私に向かって、目の前の人は「そう焦るでないわ」と口を開いた。
「ここに呼んだのは、そなたに礼と頼みがあったからじゃ」
「礼と、頼み……?」
ぼんやりと問いかけると、その人が足を組み替えた。
すると服の裾から、とかげの尻尾のようなものが見えた。尻尾も手足と同じ青い鱗に覆われており、先端へ向かうにつれて黒く変色している。
私が尻尾から目を離せずにいると、その人はのんびりと話し始めた。
「ほんの百年ばかり、魔のせいで腹を壊しておってなあ……ほら、魔の味はまるで甘味な果物でな。色は黒いが味は良い。それで、つい味見をしたのが失敗だった。三千年前にも同じ失敗をしたというにのう……」
「ちょっと待って……その話……なんだか覚えがあるんですけど……」
額に手を当てる。頭がうまく働かない……。
私がうなっていると、その人はくすりと笑った。
「あのときも人の子に看病してもろうたな。そなたはあやつにそっくりじゃ」
その言葉で確信した。
(嘘でしょう……!? でもそういえば……聖堂の像に似てる……!?)
「まさか……その、聖霊王様ですか……?」
信じられない思いでたずねると、その人は「そんなものかもしれん」とオッドアイの瞳を美しく細めた。
ずっと探していた聖霊王様が目の前にいる。
(しかも、魔のせいでお腹を壊してた……!?)
あまりに突飛な話に、言葉が出てこない。
「百年前……吾は古い体から新しい体に命を入れ替える必要があっての。その間は無防備な状態じゃ。生まれるまで隠れておるはずが、魔に見つかり餌をちらつかされてな……誘惑に負けてうっかり死にかけておったのよ」
聖霊王様は喉を鳴らしてくつくつと笑った。
降りかかった災難など気にも留めず、自分の失敗を楽しそうに話す。
(だから百年、姿を現せなかったってこと……?)
私が呆然としていると、聖霊王様はさらにとんでもないことを口にした。
「今世はそなたに拾われた。無理に力を奪ってしまってすまなんだのう。だがそなたにしか吾を再生させることはできん。吾が再生せねば、この国は混沌の世となっていたであろうな。礼を言わせておくれ」
(は……? じ、じゃあ、聖霊王様って……!?)
「あ、あなた、謎玉ちゃん……?」
絞り出した声はかすれていて、ようやく口の中がすっかり乾いていたことに気づいた。
聖霊王様は薄く笑って言葉を続けた。
「おかげで吾は再び生まれ落ちた。森は再生し、大地はまもなく緑を取り戻すであろう。だが新芽である吾の力はまだ弱い……故にそなたの力を借りたい」
どれもすぐには理解できない話ばかりだけど、ひとつだけ、はっきりとわかった。
「……っ! 辺境に緑が戻るのですか? 辺境は、もう大丈夫なんですね……?」
「そなたがおればな」
視界がじわりと熱くにじみ、こらえきれずに涙がこぼれる。
(よかった……辺境はよみがえるんだ……! もうわたしがいなくても、大丈夫なんだ……!!)
「……話を聞いていたかえ? 『そなたがおれば』と言ったのじゃ。我が子らが言うとおり、素直というか単純というか……」
「……え?」
(だってわたし、死んだんじゃ……)
聖霊王様は組んだ足の上に肘をつき、その手の上に顎を乗せた。そんな仕草も、聖霊王様がすると神々しく見えるのだから不思議だ。
顎を乗せた手で頬をトントンと叩きながら、いかにも不服そうにしている。
「吾は美食家での……そなたの力とは別に、森の番人の力もくれておったろう」
(森の番人って……もしかしてハルジュ様のこと……? たしかに一緒にあげてたけど……)
「番人の力は我らと同じもの。故に食えるには食えるのだがな、まあなんというか……微妙なのじゃ。最後の一口がどうしても飲み込めなんだ」
「え……いつもちょっと残っていたのって、そんな理由……?」
呆気に取られる私を見て、聖霊王様は目を細め、ふっと息を吐いた。
「そういうわけでな、番人の力をそなたの中に戻しておいた。その力がそなたを目覚めさせてくれよう」
「——!!」
(わたし、戻れるの……? 辺境に……ハルジュ様のところに……!)
再び目頭が熱を持ち始める。喜びの声は嗚咽になって、森の中に響いた。
「再生の聖者よ……そなた、これを連れていけ」
しばらく黙っていた聖霊王様が静かに告げる。
聖霊王様の前でお行儀悪く泣きはらしてしまった。慌てて涙を拭い私が顔を向けると、聖霊王様が右手をすっとひと振りする。
すると聖霊王様の手から光があふれ、中から聖霊が現れた。
聖霊王様から生まれた聖霊は、真珠のように白く輝く女の子だった。白い髪、白いワンピース、大きな瞳は私と同じ……黄金の瞳。
「その子は……」
ここに来る前、一番最後に光の中に飛び込んでいった聖霊は、おとなしくもじもじしている。
その仕草が、私の心の一番奥を揺さぶる。
そこは……記憶とともに失くしていた、私の心の小さな隙間。
「魔の中に消えようとしていたそなたの魂の欠片じゃ。すでにそなたから切り離されておって、魂の中に戻すことはできんが」
私の魂の欠片――あのとき、生きることを諦めてしまった、私の心。
私は立ち上がってその聖霊に歩み寄り、手のひらで優しく包んだ。
「一緒に来てくれる?」
そうたずねると、聖霊は首を横に振った。
「でも……わたし、いっぱい意地悪なこと言った」
私が自分を信じられなかったとき、きっと夢に現れてささやいていたのはこの子だ。
でも、最後に夢で謝ってくれた。
「もう平気だよ。わたしには諦められないものが、たくさんできたから」
聖霊は大きな瞳に涙をいっぱいためて「ごめんなさい……」と私の手の中で丸くなった。
私はその背中を指で優しくなでた。
この子も幸せを諦めないでほしい。それをあげられるのは……きっと私だ。
「一緒に行こう? あなたの名前は……今日から『リン』だよ」
私は前世の名前の一文字をその聖霊に与えた。
これからは「凛」と前を向いて生きていける、そんな願いを込めて。
「リン……」
リンは噛みしめるように呟くと、頬を染めて「……ありがとう」とはにかんだ。
そのままふわりと舞い上がり、私の胸のあたりで姿を消した。
胸がじんわり温かくなったかと思うと、全身を心地よいぬくもりが駆け巡り――突然、眠気が襲ってきた。
立っていられずその場に座り込むと、聖霊王様が「時間か」と呟いた。
「言い忘れておったが……吾は産まれたての赤子じゃからの。存分に可愛がっておくれ、母上よ」
「は、母上……?」
聖霊王様はふふっと楽しそうに笑う。
「そなたはママじゃな。父は……」
手をひらひらと振る聖霊王様の姿がぼやけていく。
まだお礼を言えてないのに……もう口に力がうまく入らない。
やがて全身の力が抜け――
再び暗闇に包まれた。




