73 卵争奪戦
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乱れた呼吸を整えて、私もすぐに光のトンネルを抜けた。
トンネルの向こうでは、激しい戦闘が行われて――
いなかった。
すでに黒犬は一匹も見当たらない。
周囲を見回すと、黒いローブの影が十人ほどに増えていた。
心臓が跳ね上がる。恐怖に身がすくみそうになったけれど、妙な違和感を覚えた。
ローブを着た男たちが全員、無防備にも立ち尽くしている。
(違う。全員、動けないんだ……)
よく見ると、男たちの腰から下は、土の山に埋まっていたり、氷漬けになっていたりと……ありえないことになっていた。
苦痛にうめく男たちの声が、あちこちから聞こえてくる湖のほとりで……
ただ一人、笑顔で「おかえり」と手を振る美しい青年。
「他の場所ならまだしも、聖霊が住むこの森で、私に挑もうとするのが間違いだったね」
(これが、ハルジュ様の聖術の本領……)
——聖霊を通じて自然を操ることができる力。
相手は何が起こったのか理解する間もなく、手も足も出なかったに違いない。騎士たちは襲撃者を確保するため、それぞれ動き始めている。
それを見て、私は安堵のあまり全身の力を失い、その場に座り込んでしまった。
「騎士団を連れてきてくれてありがとう。こいつらを運ぶには人手が必要だったんだ」
ハルジュ様は座り込む私に手を差しのべる。
歯を見せて笑うその顔は、どっきりに成功して喜ぶ少年のようで……。
私は嬉しさと悔しさが入り混じった心地で、差しのべられた手をぎゅうっと力いっぱい掴んだ。
(意地悪な人……! こんなの……ますます好きになっちゃうじゃない!)
痛がればいいのに、と力を込めた手は、ちっとも効果がなかった。
「わっ!」
ぐいっと引っ張り上げられ、反動で思いきりハルジュ様の胸に飛び込んでしまった。
「心配かけてごめんね」
耳元で優しい声がする。
私は込み上げる涙を必死にこらえて、わざと怒ったような声で返事をした。
「……もうハルジュ様の心配はしてあげません」
「ええ? それは嫌だな」
くすくす笑うハルジュ様の胸が上下する。
心地よいぬくもりが名残惜しいけれど……ここは私がいていい場所じゃない。
私はするりと抜け出してハルジュ様に背を向ける。
「無事でよか――っ!?」
「リナリエっ!!」
突然、私の足元に矢がかすめた。
ハルジュ様がとっさに引き寄せてくれていなければ……確実に矢は当たっていた。
ハルジュ様は私を胸に抱き、矢が飛んできた方向に矢よりも早い風の刃を飛ばした。
悲鳴とともに聞こえたのは、どさりと木の上から人が落ちる音……きっと矢を放った襲撃者だ。
私は再びハルジュ様の胸の中に戻ってきてしまった。
けれど、今度は恐怖に震えが止まらなかった。
「聖霊は!?」
ハルジュ様の声に応えたのはひとりだけだった。
「ハルぅ……ごめんね。すっごく大きい黒いの持ってる人間がきて、みんなこわいの。ぼくたちかくれてるから……」
聖霊たちがここまで怯えてしまっていると、ハルジュ様の聖術で同時に捕らえるのは難しい。
勇気のある聖霊たちが襲撃者のいる場所を教え、ハルジュ様は迅速に指示を出す。そしてハルジュ様と騎士たちが、森に潜んでいる新たな襲撃者を捕らえに走り出した。
それとほとんど同時だった。
どこかから甲高い笛の音が聞こえると、森の中から黒いローブの襲撃者とともに、何人もの男女が現れた。
それは、見覚えのある――街の人たちだった。
(なんで街の人がこんなところに……!!)
私は息をのんで彼らを見つめる。でも……どこか様子がおかしいことに気づいた。
みんなぼんやりとしていて、こちらを見ていないのだ。
それなのに襲撃者を隠すように前に出てくるので、騎士たちは思ったように剣を振るうことができないでいた。
「リナリエはここに隠れているんだ」
私を木の陰まで連れてきたハルジュ様は、そう言って騎士たちの元へと走っていった。
私は木の陰に隠れ、震える膝を必死に抱え込んでいた。指先が冷たくなり、祈るように組んだ手の感覚さえ消えていく。
(誰かが怪我をしたら、わたしがなんとかしなきゃ……)
逃げ出したくなる本能を懸命に抑えこみ、私は目をそらさずに戦いを見つめ続けた。
その時だった。
『――ママ、助けて……』
「……謎玉ちゃん?」
あの子どもの声――謎玉ちゃんの声が私を呼んだ。
嫌な汗が背中を流れ、呼吸も浅く乱れていく。
(あの子は安全な場所に隠したはず……)
どうか間違いでありますようにと願いながら、バスケットを隠した方向に目を向けた。
すると、木のうろへと続く小道から、黒いローブの影が現れた。
距離があるはずなのに、はっきり見えたその手には――謎玉ちゃんが抱えられていた。
それを見た瞬間、かっと全身の血が煮えたぎる。
「――だめ!! 謎玉ちゃんを返せ!!」
さっきまで感じていた恐怖は消え去り、私は木陰から飛び出した。
何かを考える間もなく男を追いかける。
(あの子は渡さない!!)
いつの間にか夕日は沈み、あたりは暗闇に包まれていく。聖霊がほとんど隠れてしまっているため、わずかな光を頼りに男の背中を追った。
「リナリエ!!」
逃げた男を追いかけて森の中に入ると、後ろからハルジュ様の声が聞こえた。
「あの男が……!! 卵が!!」
「――っ!! 待て!!」
説明にもなっていない私の言葉で、ハルジュ様は男の目的に気がついてくれた。
二人で男の後ろ姿を追った。
複雑な木立の影が男の姿を隠すたび、謎玉ちゃんの声が私たちを呼んだ。
何度も見失いかけては姿を捉え、なかなか男との距離を縮められない。
走り続けていると、急に開けた場所に出た。
そこは、たった今までいた湖のほとりだった。
離れた岸辺では、騎士団が襲撃者と今も交戦を繰り広げている。
聖霊たちが、男が逃げられないようにしてくれたのだとすぐに気づいた。
謎玉ちゃんをさらった男は逃げることをやめたのか、湖の縁に立っていた。
立ち尽くすだけの男を不審に思いながらも、男との距離を急いで縮める。
すると男は……恐ろしいものをローブの中から取り出した。
それは今まで見てきた石とはあきらかに違う。
林檎ほどの大きさもある、巨大な黒い石だった。
男はそれを、謎玉ちゃんに近づけた。
「やめてーーーー!!」
もつれて転びそうになる足を必死に前に出しながら、喉の奥が裂けるほどの悲鳴を上げた。
私の目の前で、謎玉ちゃんはみるみると漆黒に染まっていく。
あんなに魔を取り込んでしまったら……どうなるかわからない。
「私が行く!!」
ハルジュ様が剣を手に猛然と駆け抜け、男に斬りかかった。
それは一瞬のことだったのに、まるで時間の流れを忘れてしまったかのように、すべてがゆっくりと映った。
男はハルジュ様の剣が届く直前、魔石と謎玉ちゃんを湖に投げ捨てた。
一瞬ハルジュ様がそれに気を取られ、剣の振りがわずかに乱れる。
ふわりと広がるローブが距離感を狂わせ、男のローブをハルジュ様の剣先がかすめた。
謎玉ちゃんが黒い湖の中に消えていく――
(絶対に死なせない!!)
私は無我夢中で湖の中に飛び込んだ。




