72 森に現れた襲撃者
第九章 スタートです
翌日。夕方に差しかかる少し前に、ハルジュ様が修道院へやってきた。
今日からカレンディア様が街で魔石の浄化をしてくれている。ハルジュ様はここに来る前までその指揮をとっていたのだ。
残念ながら魔石の露店商は行方知れずのまま……引き続き捜査をしていくという。
そしてカナン殿下は今朝、王都に戻っていったそうだ。
森へ入る前に、二人の聖力を謎玉ちゃんに与えた。
やっぱりハルジュ様の聖力をちょっとだけ残すので、あいかわらずだね、と二人で笑ってしまった。
森の中に入るとプティが迎えにきた。
「プティ、森はどう? みんな大丈夫?」
昨日の聖霊たちの不安げな表情を思い出す。
「今は黒いのはいないよー」
その声に、私は少しだけ肩の力を抜いた。それでもまだ油断はできない。謎玉ちゃんを安心して置いておけるところを見つけないと。
「プティ、しばらく卵を聖霊たちに預ける。どこに隠せばいい?」
プティは「うーん」と少し迷ったあと、仲間たちと何かを相談していた。やがて「こっちー!」と私たちを先導し始めた。
「ねぇ……プティ。謎玉ちゃんね、魔物の卵かもしれないって言われたの……。そんなこと、ないよね……?」
私は歩きながら、祈る思いでプティに聞いた。
聖霊たちは卵のことを話さないから、答えは返ってこないかもしれない。それでも聞かずにはいられなかった。
プティはまん丸な赤い瞳でこちらをじっと見てから「わかんない」と答えた。
「あのね、黒いのがいっぱいになると卵死んじゃうでしょ? そしたら悪いのが出てくるかもしれない」
それは私の望んでいた答えではなかった。
気持ちが鉛のように重く沈んでいく。
それでも……私は唇をぎゅっと噛みしめて、思考をむりやり前に向けた。
(裏を返せば……『黒いのがなくなれば、魔物は出てこない』ともとれるはず)
今はその答えが聞ければ十分だった。
謎玉ちゃんは死なない。魔物にもならない。
(……わたしが絶対にさせない)
そのとき、謎玉ちゃんの入ったバスケットの片側がふっと軽くなった。
お互いに持つといって譲らなかったので、ハルジュ様と片方ずつ持っていたのだ。
隣を歩くハルジュ様に顔を向ける。彼は自分側のバスケットの持ち手を軽く掲げるように持ち上げ、優しい笑みを浮かべていた。
「私が守るよ。謎玉ちゃんも、君も」
胸の内に、春の陽だまりのような温かさが満ちていく。
私は知っている――ハルジュ様は嘘をつかない。
これまでだって何度も助けられてきた。
内側から込み上げる熱に、鼻の奥がつんとする。
(やっぱりわたし……ハルジュ様と一緒に辺境を守っていきたい)
隣じゃなくていい……後ろからでいいから。
「……わたしも守ります。謎玉ちゃんも、ハルジュ様も……辺境も」
私にできる精一杯の笑顔で返事をしてから、涙目に気づかれないように、慌てて視線を正面に戻した。
「……まいったな。もう、完敗だ……」
隣からそう呟く声が聞こえたけれど、私はまっすぐ前を向いたまま歩き続けた。
聖霊たちが導くままに進んでいくと、見覚えのある光のトンネルが現れた。
トンネルの先にはあの黒い湖があった。
湖のほとりから見える空は、オレンジ色に変わり始めている。
湖に視線を落とす。夕暮れの光まで吸い込むように、黒い湖面は静まり返っていた。
「こっちだよー!」
聖霊の呼び声についていく。
すると、入ってきた場所からちょうど対岸あたりの木立の間に小道があった。
小道を少し進んだところに、大きなうろがある大木が立っていた。うろの中をのぞくと、大人でも入れるほどの広さがあった。
「ここ?」
私がたずねると、聖霊たちがうなずいた。
私は最後にもう一度だけ、謎玉ちゃんに聖力を与えた。
謎玉ちゃんに聖力を与えずに、どのくらい耐えられるだろうか。プティたちは、森にいれば黒化はゆっくりになると言っていたけれど……。
哺乳瓶いっぱいに貯めた聖力が、謎玉ちゃんに吸い込まれるように消えていった。
ここまで来て、離れるのが名残惜しくなる。たっぷり時間を使って、謎玉ちゃんと哺乳瓶をバスケットごと木のうろに隠した。
「魔石のことが終わったら、すぐに迎えにくるからね」
謎玉ちゃんにそっと声をかけて小道を戻る。
ハルジュ様の後について、とぼとぼと湖のほとりを回り、光のトンネルに向かおうとしたときだった。
――今まで葉擦れの音ひとつなかった森の木々が、ざわっとざわめいた。
「ハル! 黒いのきた!!」
「!?」
聖霊たちがハルジュ様に警告を出すと同時に、一斉に森の中に隠れてしまった。
「リナリエ……私たちも森の中へ。ここでは目立ちすぎる」
湖のほとりにいると、森の中からこちらが丸見えになってしまう。ハルジュ様は腰の剣に手を置き、私を後ろに庇いながら森の中に後退を始めた。
(何が起こっているの……)
私は震える足をなんとか動かして、ハルジュ様と一緒に歩き出した。
「――っ!! リナリエ!!」
あと少しで森の中、というところで、私の背後から聞き覚えのあるうなり声が聞こえた。
私が反応する前に、ハルジュ様が私の体を引き寄せて黒犬に一太刀をあびせる。
魔獣となった黒犬は甲高い悲鳴を上げ、黒い砂となって崩れ落ちていった。
私は魔獣の異様な様相を前に、息をすることさえ忘れていた。
「大丈夫か!?」
魔獣に襲われそうになったことを遅れて理解した瞬間、身体ががたがたと震え出す。恐怖に支配されそうになりながらも、おぼつかない足に力を込め、必死で歯を食いしばった。
(ここで足手まといにはなりたくない……)
「は、はい……ハルジュ様は……?」
「この間のようにはいかないよ。だが……今日はこのまま終わりというわけではなさそうだ」
ハルジュ様がにらみつけるその先には、三匹の黒犬と……真っ黒なローブを被った人物がいた。
魔獣はハルジュ様の気迫に間合いを詰めきれず、苛立たしげにうなっている。
「リナリエ、頼みがある」
ハルジュ様は魔獣から目を離さず、私に言い聞かせるように話し始めた。
「聖霊を大伯父上の元に向かわせたから、私のメッセージが届いているはずだ。すぐに騎士団が森の入口に来る。君は騎士団をここに連れてきてくれないか」
「で、でも……! ひとりじゃ危険です!」
戦うことはできないけれど、私は癒しが使える。そう主張したけれど、ハルジュ様は首を横に振った。
「おそらく敵はこいつらだけじゃない。何人いるかもわからないから戦力が必要なんだ。ここに騎士を案内できるのはリナリエしかいない……頼む」
私にはうなずくしか選択肢がなかった。
ハルジュ様が魔獣を引き止めている隙に、私は聖霊たちと森の入口に向かって走った。聖霊たちが近道を教えてくれ、行きよりも短い時間で入口に戻る。
森の入口にたどり着くと、すでに騎士たちが待機していた。私が事情を説明すると、騎士たちはすぐに動き始めた。
「――あの!」
私は森を進もうとする彼らを呼び止め、ある提案をした。
「今から皆さんに聖術を使います。きっと戦いやすくなるはずですから」
返事を聞くことなく、私は手のひらを地面に置いた。植物たちと同じ。地面を通して全員に力を行き渡らせる。
手からまばゆい光が生まれ、騎士たちのいるあたり一帯を包み込んだ。
騎士たちが息をのむ声が聞こえる。
――だけでは終わらなかった。
「えっ……」
光が消えたあと、私の目の前に、夕陽に照らされて美しく輝く新緑の森が現れた。
木々は鮮やかな色を取り戻し、野花は色とりどりの花を咲かせている。
「これが……聖霊の森の、あるべき姿……?」
呆然と呟く私の耳に、騎士たちの奮い立つ声が聞こえ、はっと我に返った。
(今考えるのは森のことじゃない)
騎士たちと再び森の奥に向かって走り出すと、聖霊のおかげですぐに光のトンネルが見えた。
私の聖術は自分には使えない。ずっと走りっぱなしだった私の体力は底を尽き、スピードが落ちていく。
「あの光の先です!! ハルジュ様をお願い……!!」
先を走る騎士たちが、光の中に消えていく。
(お願いだから無事でいて――!!)




