56 黒の森の呼び声
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ノクスさんの(仮)プロポーズから数日が経った。
あれから私たちの関係は…………まったく変わっていなかった。
返事は急がないと言うし、今は農地の再生が最優先だ。
……気持ちの整理にはまだ時間が必要だし。
薬草堆肥作りは順調に進んでいた。
街外れの農地も、最初とは比べものにならないほど広がっている。
一方で、聖霊王様の捜索は難航していた。
聖霊たちにも手伝ってもらっても、いまだに聖霊王様の手がかりは見つからない。
カレンディア様の浄化で緑を取り戻した森の木々も、残念なことに数日後には黒色に戻ってしまったそうだ。
今日一日捜索して、何も成果がなければ作戦を立て直す……そう言って捜索隊は森へ入っていった。
そんな捜索隊を見送り、私とノクスさんは今日も森の入口で薬草を採取していた。
昼をしばらく過ぎたころ、辺境騎士が慌てた様子で駆けてきた。
「ノクス! ちょっと急ぎの対応だ。公爵令嬢あてに、王都から使者が来たみたいで……」
今は辺境伯様が対応してくださっているけれど、カレンディア様にどうしても急ぎの伝言だと譲らないらしい。
騎士もだいぶ困っているようで、私は怪訝そうにしているノクスさんに声をかけた。
「ノクスさん、大事な用事かもしれないので行ってください。わたしはここで待って、カレンディア様が戻ってきたらすぐに領城に向かうように伝えます」
「しかしな……君は信用できないんだよな」
「へ?」
「絶対に勝手に動くなよ?」
「ちょっと! ちゃんと待てますよ! 子どもじゃないんですから!」
じとりと目を細めているノクスさんをむりやり騎士に引き渡し、私は約束どおり森の入口で捜索隊が戻ってくるのを待つことにした。
夏の午後の日差しはまぶしく、止まっていてもじわじわと汗が出てくる。私は木陰に座り、一緒に来ていた聖霊のプティがふわふわと飛び回っているのを目で追いかけていた。
どのくらいそうしていただろうか。
さっきまで風はなかったのに、急に森の中がざわめいた。
――……けて……
「?」
木々のざわめきの音に混じって、何か聞こえた気がした。
その瞬間、突然周りにいた聖霊たちが一斉に森の中に飛び込んでいく。
「なに? みんなどうしたの……?」
立ち上がった私に向かって、プティが激しく光を点滅させる。「早くついてこい」と、そう言っているみたいだった。
「でもわたし、ここで待っていないと……」
緊急事態だという雰囲気は伝わるけれど、一人で動かないと約束したばかりだ。戸惑う私の耳に……風に乗って声が届いた。
――助けて……
森の中から聞こえたのは、子どもの声だった。
かすれて、今にも消えそうな声。
はっとしてプティを見た。プティはまだ点滅を繰り返している。
私は捜索隊に宛てた書き置きを地面に残し、プティと一緒に森へ飛び込んだ。
(聞こえた声はかなり弱ってた。一刻を争うかもしれない……!)
森の中はいつもどおり、聖霊の光であふれていた。
迷い込んだ子どもは聖霊の加護を持っているのだろうか。もし持っていなければ……恐ろしい闇の中で震えている小さな子を想像して、背筋が冷たくなった。
プティは森の奥へと私を誘うように前を飛んでいる。
私は歩を進めながら、慎重に周囲を確認していった。
しばらく森を進むと、同じ方向へ向かう聖霊の数がどんどん増えていることに気がついた。
(こっちに、何かあるの?)
胸騒ぎが強くなっていく。
私は聖霊の集まる先へ進んだ。聖霊の数は増え続け、森は白い光に満ちていく。
先へ進むにつれて、周囲の黒い木々は光の中に溶けていき……気がつくと、私は光のトンネルの中を走っていた。
『ママ……助けて……怖いよぅ……』
トンネルの中を進んでいくと、今度ははっきりと声が響いた。
「どこにいるの!?」
大声で呼びかけても返事はない。
私は何度も呼びかけながら光の中を駆けた。ぐんぐん伸びる光のトンネルを駆け抜けると――急に開けた場所に出た。
(ここは……?)
目の前に現れたのは、黒い木々がうっそうと生い茂る森の中に、ぽっかりと空いた穴のように広がる空間。
そこにあったのは湖だった。
湖を見て鳥肌が立った。
差し込む太陽の光を反射するはずの湖面は……真っ黒だった。黒の森と同じだ。
その不気味さに言いようのない不安を感じながら、子どもの姿を探した。
湖は大きく、対岸までの距離はかなりありそうだ。それでも見通しはいいので、向こうで動くものがあればすぐにわかる。
最後に子どもの声が聞こえてから、そんなに時間は経っていない。湖の周りにいれば、すぐ見つかるはずなのに……。
「まさか――!」
最悪の事態が頭をよぎり、全身から血の気が引いていく。私は水面に異常がないか、必死で目を凝らした。
湖の水はさざ波ひとつなく、つるりとした表面を保ったままだった。まるで黒い石でできた床のように見える。
(よかった……湖に落ちたのではなさそう)
私はほっと息を吐き、なんとなく湖に手を浸してみた。
「え……どういうこと……?」
手に触れる水は、冷たくも温かくもない。どろっともしていないし、さらさらと当たる感触もない。たしかにそこに水があるのに、触ると何もないような……変な感じだった。
手をゆっくり引き抜くと、そこから波紋が広がった。
背筋にぞくっと冷たいものが走る。黒い水から目を背けるように、もう一度あたりを見回した。
黒い湖を取り囲む黒い木々に、茶色い岸辺。水上を白い光を纏った聖霊たちがふわふわと漂い、見上げればまぶしい青空と白い雲……。
生き物の気配もない沈黙を貫く湖に向かって、私は大きく声を張り上げた。
「誰かいる? 助けにきたよ! 聞こえたら返事をして!」
すると今度こそ、私の声に応えるように子どものか細い声が聞こえた。
――湖の中から……。
「ママ……助けて……ここだよ……」
私は水面へ目を向けた。
(水の中から声が聞こえるなんておかしい。でも……もし本当に子どもだったら?)
悩んだのは一瞬だった。
見捨てるわけにはいかない……私は何かに引き寄せられるように湖に飛び込んだ。
ドボン、と大きな音はしたけれど、水の衝撃は感じなかった。
抵抗を感じない水の中で手足を動かすと、水面が激しく波立ち体が前に進んだ。私は声をかけながら必死に子どもの姿を探した。
水面には何の気配もなかった。もし沈んでしまったのだとしたら……。
(黒い水の視界はどうなっているんだろう。もう時間がないかもしれないのに……!)
焦る気持ちを抑えて、私は自分を聖力で光らせてみることを思いついた。そうすれば水の中でもこちらに気づいてくれるかもしれない。
(やるしかない。コントロールの練習はたくさんした。これは応用だ)
そう自分に言い聞かせ、光を放つ聖霊をイメージして聖力を体に纏わせてみた。
「あっ!」
その途端、何かに水中に引きずり込まれた。必死でもがいても引っ張る力は止まらない。
自分が息を吸っているのか吐いているのかもわからない。
意識が飛びそうになる――
その寸前に、ザバン! と音が聞こえ、全身に衝撃が走った。
「ごほごほっ!」
なんとか呼吸を整えて顔を上げると、そこは黒い洞窟の中だった。




