50 行方知れずの聖霊王
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ハルジュ様が深く息を吐いて、手記をテーブルの上に置いた。
新緑の瞳と……目が合ってしまった。
「マザーから聞いたよ。私も建国前の記録を読んだことはあるが、もうずいぶん前のことだ。まさかそこにヒントがあるなんて……。聖霊に助けられたね」
「はい……」
私がうなずくと、ハルジュ様は私を見つめたまま目を細めた。
「君が見つけたこの手記のとおり……君は始まりの聖女と同じ、この辺境を救う、再生の聖術の使い手なんだ……」
ハルジュ様はこの力のこと、きっと喜んでくれると思っていた。少し前だったら、きっと笑顔で答えられたのに……。
(早く視線を切らないと……)
「す、救うなんて、大それたことができるかはわかりません。ですが、この力を辺境のために役立てたいという気持ちは本当です。ですから……領地に戻るのはもう少し先でもいいでしょうか……」
なんとかハルジュ様から目をそらし、机の上の手記に視線を向けたまま伝えた。
「そうね……貴方には申し訳ないけれど、こればかりはお願いしなくてはいけないわね……」
カレンディア様が小さくため息をついた。
(よかった……これでまだここにいられる)
私は膝の上で握りしめていた手の力をそっと抜いた。
「辺境の再生計画は大伯父上が指揮を執ってくださることになった。張り切りすぎて心配なくらいだ」
「まあ! つい最近まで気力が尽きかけていた人とは思えない変わりようね。体が若返ったわけではないのだから……」
ハルジュ様が苦笑すると、マザーが呆れた声を上げる。
辺境が明るい未来に向かって動き出している。
嬉しいはずなのに、私だけがこの場で浮いているような居心地の悪さを覚えた。
辺境再生計画についての話が落ち着くと、ハルジュ様の纏う雰囲気が変わった。
「辺境再生の方は見通しが立ってきた。ようやく……もう一つの問題にも向き合うことができる」
その内容は、思いもよらないものだった。
「これから、本格的に聖霊王の捜索に動こうと思う。今日はその相談に来たんだ」
「聖霊王の、捜索……?」
ハルジュ様の言葉の意味を図りかねていると、マザーがさらりと言った。
「あら? 話したことなかったかしら……絵本にもあったでしょう? 黒の森にお住まいの、聖霊王様のこと」
「え……? さすがにそこは作り話だとばかり……。だって……聖霊王様って、神様ですよね?」
聖霊王も神様の一人なので、人間の世界に姿を現すことはない……王都ではそう学んできた。
実際に建国前の記録にも、『兄弟と女性が森の異変を救った』としか書かれていなかったはずだ。聖霊王様の記述は一つも見ていない。
「私もさすがに絵本のすべてが事実だとは思っていないわ。でも聖霊王様がいらっしゃることは間違いないの」
マザーがきっぱりと言い切る。それでも私が困惑を隠せずにいると、ハルジュ様がにやりと笑った。
「まあ、信じられないのはわかるよ……実際に会ったことのある者がほとんどいないのも事実だ。でも百年前までは間違いなくいた。会った本人が言うんだから間違いないだろう?」
(本人って、まさか……)
「私は百年前、聖霊の森で聖霊王様にお会いしているの」
にっこりと微笑むマザーに、私は頭を抱えた。
(聖霊のことといい、聖霊王様のことといい……)
「……わたし、王都で教わってきたことが全部信じられなくなりそうです……」
私が混乱をそのままこぼすと、ハルジュ様は苦笑した。
「まあ、どこかの時代で意図的に隠された可能性が高そうだけどね……。こんなこと、いまさら公にしても混乱や争いの火種になるだけだ。辺境としては知られていないくらいがちょうどいい。でも、今回に限っては別だ」
ハルジュ様が表情をあらためた。
「マザーが聖霊王に会ったのは、聖霊の森が黒の森になる少し前だそうだ。それから一度も姿を見せていないらしい。大伯父上もずいぶん前から、定期的に捜索に当たっているけどね。今まで行方不明なんだ」
「行方不明……」
(百年前にマザーがお会いしたきり、聖霊王様は行方不明。そのあと、森で異変が起き始めた……)
聖霊王様と森の異変に、関係がありそうなのはなんとなくわかる。
だけど、ほとんど会った人がいないなら……偶然ということはないのだろうか。
「聖霊王様が、たまたま百年現れないだけってことはないんですか……?」
「その可能性もあるけれど……聖霊王様にお会いしたときにね、神託をいただいたの。『森に魔が生まれたときは、魔を晴らす者を呼びなさい』って」
マザーの言葉に続けて、ハルジュ様がためらいがちに言った。
「リナリエは、森で会った黒犬を覚えているだろう? 実はあれは……魔獣だったんだ」
「あれが、魔獣……?」
あの黒犬が魔獣だったという事実に震えが走る。
動物が魔に刺されると、異形の獣――魔獣になるといわれている。でもそれは非常に珍しい現象のはず。
しかも、聖霊の多い辺境で魔は生まれにくいとマザーが言っていた。そこに魔獣が出るなんて……偶然にしてはできすぎている。
「百年経って、神託のとおりに黒の森に魔獣が現れた……きっと何かが起こる前触れのはずだ。聖霊王に会って、何が起ころうとしているのか確認しなければ」
「聖霊たちは、聖霊王様の居場所を知らないのですか……?」
聖霊たちなら居場所がわかるのでは……そう思ったけれど、ハルジュ様は首を横に振った。
「聖霊たちも知らないらしい。もうここ百年近く……新しい聖霊も生まれていないと」
「そんな……」
私は言葉を失った。このまま聖霊が生まれなかったら、この国はどうなってしまうのだろう。
ハルジュ様を見ると、彼はいつになく真剣な表情で告げた。
「聖霊王の捜索のため、黒の森に捜索隊を派遣する。修道院を拠点として使わせてほしい。捜索にあたるのは森に慣れた精鋭の辺境騎士と私、カレンディア、そして聖霊王と面識のあるマザーにも協力を仰ぎたいんだ」
「ど、どうしてカレンディア様も? 大丈夫なんですか……?」
不安になって思わず声を上げた。
カレンディア様には聖霊の加護がない。森に入ることさえ難しいはずだ。まして公爵令嬢が森に入るなんて……。
すると、今まで黙っていたカレンディア様が口を開いた。
「実はわたくしの癒しはね、魔の浄化もできるの。先ほど言っていた神託の『魔を晴らす者』が、わたくしのことではないかって。今回、それが理由でここに来たのもあるのよ」
「で、でも……」
私が言葉を詰まらせていると、カレンディア様は笑みを浮かべながら美しい声を張り上げた。
「わたくしを心配してくれているのね……ありがとう。こう見えて度胸はあるつもりなの。魔がいるのならわたくしの出番だわ。聖霊王も浄化の力に惹かれて姿を現すかもしれないし」
「カレンディアが一時的に森に入れるよう、聖霊に頼むから問題はないよ。危険がないように、私がしっかり守るから」
「わたくしもこれからは辺境の一員だもの。怯えてなんていられないわ」
「……君は子どものころからそうだったな。頼もしい限りだ」
カレンディア様はにこりと笑ってハルジュ様を見つめた。ハルジュ様も少し戸惑いながら笑い返している。
私はそんな二人を微笑ましく見守るふりをしながら、二人の奥にある壁の絵画を見つめ続けた。




