42 悪役ヒロイン
「君は何を恐れている?」
「え……」
いつもの優しい微笑みは姿を消し、ハルジュ様は悲しげにこちらを見つめている。
「王都を発ってからここまで……君はずっと、自分は罪を償うために来たと言い続けている。君の罪とはなんだ?」
「わ、わたしは……王太子殿下に危害を――」
「それは罪ではないと伝えたはずだ。いや……それは私が悪い。王都を出たときからずっと曖昧なままにして、君の誤解を解かずにいた。そのせいで君につらい思いもさせてしまった……本当にすまなかった。君には本当に、償うべき罪はないんだ」
「そんなはずは……」
ハルジュ様の言っている意味がわからなかった。
(わたしの誤解? でもハルジュ様だって、ここに連れてくる前に何度も……)
うろたえる私に、ハルジュ様は静かに告げた。
「リナリエ。最初から……私は君に『罪』という言葉を使ったことはないよ。ずっと君だけが言い続けていたんだ」
「は……」
(だってわたしは、悪役だと最初から決まっていたから、罪を償うためにここにいるはずで……)
「王都でのことも、いずれ真実が公表されれば噂は消える。私が必ずなんとかする。でもそれとは関係なく……君は、自分が罪を抱えていると決めつけているように見えるんだ」
ハルジュ様が一歩ずつこちらに近づいてくる。強いまなざしに射すくめられて、逃げたくても逃げられない。
「思えば君は、年ごろの令嬢らしい楽しみを避けているよね。街に来ても、いつも気にしている菓子屋と雑貨屋があるのに絶対に行こうとしない。そんな小さな自由ですら怖がっているように見えるんだ」
(だって……わたしは悪役だから、ここには罪を償いに来ているのに、楽しむなんてしちゃいけなくて……)
一歩、また一歩とハルジュ様との距離が縮まっていく。
「リナリエ……君が何を恐れているのか、教えてくれないか? 君が私の力になりたいと言ってくれたように、私も君の力になりたいんだ」
あと一歩の距離を残して、ハルジュ様は歩みを止めた。強い光を湛えていたまなざしは優しい光に変わり、目を合わせていられずに私はうつむいた。
この世界がざまぁルートであるなら、私に与えられた悪役ヒロインという配役はもう変えられない。ここで見つけた温かな居場所も、自分の弱さに負けた途端になくなってしまうかもしれない。
自分の力が癒しではないとわかった日。
あの日からときどき夢に現れる「失った記憶の中の私」が忠告してくる。
『悪役であることを忘れないでね』
『魔に心を渡せばずっと楽になるのに』
『あなたがしているのは本当に辺境のためなの?』
私はハルジュ様に、そんなことを言ってもらえるような人間ではない……。
夕陽が映し出す私の影が、ハルジュ様の足元に伸びている。
すぐ側で静かな息遣いが聞こえる。彼はもうきっと、何も言わない。
「……わたしは偽善者なんです」
こらえることができなくて、胸につかえていた言葉がこぼれ落ちた。
「最初からそう。聖女になって……みんなのためとか言いながら、感謝されるのが嬉しかったから、本当は自分のために頑張っていただけ。それが人とつながれる唯一の方法だったから」
口をついて出た言葉はもう止められなかった。
「ここに来てからだってそうです。辺境のために役に立ちたいとか言って、結局……自分が悪役になるのが怖かっただけ。見捨てられないように、自分のために頑張っていただけなんです。ただの偽善なの……」
私の本心を聞いて、ハルジュ様はきっと軽蔑するだろう。
でも、それでいいのかもしれない。
ハルジュ様の優しさに触れていると、自分が悪役だってことを忘れそうになるから。少し距離が近すぎたんだ。
力を使うことには協力させてもらうけれど、私はこのまま悪役の結末どおり、修道院で静かに過ごしていた方がいい。
(それから……すべてが落ち着いたら、辺境伯様にお願いして、家族の元へ帰ろう……)
返事がないまま、ただ静けさだけが続いた。
「偽善の何が悪い」
「……え?」
予想外の言葉が聞こえて、私は思わず顔を上げた。
夕陽に照らされたハルジュ様の瞳には、再び強い光が宿っていた。
「偽善の何が悪いんだ? それで救われる誰かがいるなら、あれこれ言いながら何もしない奴らの方がよほどたちが悪い。事実たくさんの人が君に救われたんだ。私もだ。それに君のしてきたことは偽善じゃない」
ハルジュ様が笑った。
「それは君自身が幸せになるために努力してきた証だ」
私は目を見開いてハルジュ様を見つめた。
(どうしてそんなことを言うの? 呆れて、失望して、距離を置かれるんじゃないの?)
自分の頬が濡れていくのがわかる。次から次へと涙が流れていく。拭いたくても指先ひとつ動かすことができない。
「私は君の努力を近くで見てきた。周りがどう思っても、私は君の味方でいる。絶対にだ」
ハルジュ様が、一歩を踏み出した。
(その言葉……)
それは前世の私がお守り代わりにしていた、大好きなハルジュ様の台詞だった。
思い出すたびに「ひとりじゃないんだ」と思えて、不安なときに支えてもらった言葉だった。
心が震える。
気づいたときには、私の背中に温かい腕が回っていた。
ハルジュ様の大きな体に、ちっぽけな私は簡単に包み込まれてしまった。
「……わたし、みんなに軽蔑されて、ひとりぼっちになるのが……怖い」
「ひとりにしない」
「がんばるのをやめたら……すぐ、魔に、負けて……悪役に、なるかもしれない……」
「君は聖霊に愛されている。聖霊を信じるって言ったろう? 私もいる。大丈夫だよ」
何度も怖いと不安をこぼすと、何度も大丈夫と声をかけてくれた。
私が幼い子どものようにぐすぐすと泣くと、ハルジュ様は優しく背中を叩き続けてくれた。
日が暮れ始めるまで泣き続け、私が泣き疲れてぼんやりしていると、馬車までずっと手を引いて歩いてくれた。
馬車に乗り込むころには我に返り、時計塔でのことを思い返して顔を覆った。
(わたしはハルジュ様の前でなんということを……)
「す、すみませんでした……今日のことは忘れ――」
「忘れないよ」
ハルジュ様が私の言葉を遮り、優しく微笑んだ。
「君の本音がようやく聞けたんだ。絶対に忘れない」
その言葉が真剣なのか、からかわれているのかがわからなくて、恥ずかしくなった私は修道院に着くまでずっと手で顔を隠していた。
心の中で、あの台詞を何度も繰り返しながら。




