3 最推しの王弟殿下
誰かの靴音が、私のいる牢の前で止まった。
寝台に座っている私からは、鉄格子の前に立つ人物の顔が見えない。
朝日が入るといってもほんのわずかな範囲で、あいかわらず牢の中は暗く冷たいままだ。
着替えと食事を持ってきてくれた兵士の人かと思ったけれど、手に何かを持っているようには見えない。
よくよく目を凝らして見ると、兵士の鎧姿ではなく、身なりの良い貴族服を纏っているようなシルエットだ。
その人は一人で来たようで、ほかに人影はなかった。
もしかして私の処罰が決まって、それを知らせに来たのだろうか。
それとも危険を犯して私を助けにきてくれた謎の仮面紳士……なんているわけないか。
よくあるのは、悪役が捕まっている牢に主人公がやってきて、「みじめな私を笑いに来たんでしょ。これで満足?」的なやり取りをするやつだ。
……そんなやり取りをする相手が思いつかないけれど。
(え……まさか王太子?)
じっとその人物を見つめていると、突然周囲が真昼のように明るくなった。
それまでずっと暗い場所にいた私は突然の明るさに目がくらみ、思わず目をぎゅっと閉じた。
目が光に慣れてきたころ、おそるおそる目を開くと……
そこには信じられない人物が立っていた。
優しげな目元には鮮やかな新緑の瞳が輝き、誰もが見惚れる完璧な微笑みを浮かべている。
明るい金の髪は絹のように滑らかで、左耳の上で青水晶の髪留めが光を反射して揺れていた。
その非常に美しい顔立ちの男性と、目が合った。
私はこの方をとてもよく知っている。
ハルジュ・ドルク・アズロア。
このアズロア王国の王弟殿下であり――私の前世の最推し様。
彼は悪役令嬢の幼なじみとして、ざまぁルートに登場するサポート役のキャラクターだ。
ビジュアルもさることながら、悩める悪役令嬢に贈る、彼の台詞が大好きだった。
私自身、彼の言葉に何度も勇気や元気をもらってきた。
(スクショしたお気に入りの台詞をお守り代わりの待ち受けにして、いつも王弟殿下を眺めていたっけ……)
そんな憧れの人物が今、目の前にいるのだ。
攻略対象たちと違って、サポートキャラの王弟殿下は立ち絵だけだった。
(でもこの世界では動いてる。本当に生きてる……)
心臓の音がうるさいくらいに高鳴っている。
なんだかキラキラ輝く光の背景まで見えてきた。
(これは夢? もうこの際夢でもいい……!)
こんな奇跡があるなら……ざまぁルートも、悪いことばかりではないかもしれない。
そうだ……彼は本編には出てこない。私がヒロインのままだったら、王弟殿下とはきっと出会えなかった。
さっきまで鬱々としていた気持ちはどこかに消え去っていた。
私が頭の中で浮かれていると、王弟殿下は牢の鍵を開けて中に入ってきた。
そのまま寝台の前まで来ると、私に向かって手を差し出した。
「リナリエ・メルダール嬢。君を迎えにきた」
(しゃ、しゃべった……! わたしの名前を呼んだ! 声もいい……!)
「は、はい⋯⋯」
差し出された手に掴まって、ふらつきながら立ち上がった私の顔を見て、彼は気の毒そうな表情でハンカチを取り出した。
「かわいそうに……やはりこんな牢の中に入れるべきじゃなかった。手が氷のように冷たいじゃないか。それに目が真っ赤だ……つらかったね」
そう言うと、殿下はハンカチで私の頬を拭い、そのまま目に当てて何かを呟いた。
すると当てられたハンカチがじんわりと濡れていく。
(……今のは、殿下の力?)
突然冷たくなったハンカチに驚いたものの、きっと殿下が持つ特別な力に違いない、とひとりで納得した。
しばらく当ててもらっていると、泣きすぎてヒリヒリしていた目元の熱も引いてきた。
反対に私の頬の熱は急上昇していく。
(……待って、わたし、今ひどい顔しているんじゃ……。どうしよう、恥ずかしくなってきた)
推しにお世話してもらうなんて罪深すぎる。すぐに離れてもらおうと、私は口を開いた。
「あ、あの!」
「ん?」
(うっ! 『ん?』が色っぽすぎる……!)
「も、もう大丈夫ですので……」
目元からゆっくりハンカチが離れていく。
ほっと胸をなで下ろし、閉じていた目をゆっくり開いた。
……王弟殿下の麗しいお顔が至近距離で私を見ていた。
「ひいっ!」
悲鳴を上げそうになったのをどうにか我慢し、両手で自分の顔を覆って視界を塞いだ。
「も、も、申し訳ありません! こんなみっともない姿で……。それに王弟殿下のハンカチを濡らしてしまいました……新しいものを必ずお返ししますので、そちらは破棄してください……!」
そこまで言って、今の自分にはもう何も残っていないことを思い出した。
「あ……わたし、もうお金ありませんでした……どうしよう」
途方に暮れていると、ふっと息の漏れる音がした。
(もしかして、笑った? うわぁ見逃した……)
この際私の姿なんてどうでもいい。やっぱり推しの一挙手一投足は見逃せない。
そう結論を出し、両手を外して顔を上げた。
「君はみっともなくなんかないし、謝ることは何もないよ。それにハンカチのことは気にしないで」
王弟殿下は柔らかく目を細め、穏やかな低音の声を牢内に響かせた。
「つらい思いをさせてすまなかったね。今から客間へ移動する。そこでゆっくり休んでから、今回の件について話を聞かせてほしい」
(殿下の優しさが突き抜けている……じゃなくて、客間?)
我に返り、とても重要なことを殿下に確認する。
「ええと……このまま辺境の修道院へ送られるのではないのですか? 客間……ですか?」
(もしかしてわたしは許されるの? 修道院に行かなくていいの?)
そんな期待を込めて問いかけた言葉は、次の返事でなかったことになる。
「いや、すぐに辺境には行かないよ。昨夜の様子からひとまず悪意はなさそうだと判断して、客間に移動してもらうことになったんだ。監視は置くけどね」
殿下はわずかに眉を下げて言った。
「あれだけの人が見ていたら大きな騒ぎになることは間違いない。王家は今回の件について国民に説明しなくてはならないんだ。辺境に行くのは君の話を聞いてからだね」
「そ、そうですか……」
肩を落とした私に、彼は興味深そうにたずねてきた。
「もしかして辺境に興味があるの? あの『呪われた土地』と呼ばれる場所に?」
「ええ!? い、いえ! あの、そうではなくて……」
「ふふ、そんなに焦らなくてもいいから」
口ごもる私の返事を待つことなく、殿下は私の手を取った。
「大丈夫。悪いようにはしない。私に任せなさい」
推しに手を取られそんな優しい言葉をかけられて、断れる人はいるのだろうか。
私の頭の中は王弟殿下でいっぱいになっていく。
「さあ、いつまでもここにいたら体を壊してしまう。そろそろ行こうか」
憧れの王弟殿下のエスコート。
硬く男らしい手の感触と温かさに、私は一旦考えることを放棄した。




