23 森に現れた黒い犬
私たちが薬草を採取している間、ハルジュ様には森の土を持って帰りたいとお願いをした。これも私の計画に必要なものだ。
ハルジュ様は快く引き受けてくれ、持ってきたスコップで森の土を木箱に詰めていた。
時間を忘れて採取に熱中していた私は、いつの間にか二人から少し離れてしまったことに気がついた。
あまり離れて迷子にでもなったら大変だ。慌てて立ち上がり、二人の方へ行こうとしたときだった。
背後から、地面を這うような低い音が聞こえたような気がした。不思議に思って振り返る。
(……荷車の音? もしかして、ほかにも採取に来ている人がいるのかな)
少し耳を澄ませていると、それは荷車を引く音ではなく、何かが低くうなっている声だと気づいた。
その声は次第に近づいてきている。
足が地面に縫い止められたように動けない。うなり声のする暗闇から目をそらすこともできなくて、ただ声の主が現れるのを待つしかなかった。
――二つの光が暗闇の中に浮かび上がった。
(あれは、聖霊の光じゃない……もっと歪んだ何かだ)
本能で理解したけれど、逃げるには間に合わなかった。
暗闇の中から真っ黒な犬が現れ、うなり声を上げながらゆっくりとこちらに近づいてくる。
「リナリエ? どうしたの?」
先に私の異変に気づいたのはマザーだった。立ち止まったまま動こうとしない私を不思議そうに呼び、こちらに向かってこようとしているのがわかった。
(――来ちゃだめ!!)
叫ぼうとしたけれど、声が出せなかった。大声を上げた瞬間に黒犬は動き出す気がした。
私の陰に隠れて見えていないのか、マザーはまだ黒犬に気づいていない。
「二人とも! 聖霊が騒いでいる。早くこちらに……リナリエ?」
遠くにいるハルジュ様が聖霊の様子から異常に気づいた。早足でこちらに近づいてくる。
このままでは危ない。
特に私からあまり遠くない場所にいるマザーは、黒犬に目をつけられたらひといきに襲われる可能性がある。
黒犬のうなり声が止んだ。その濁った目は、私ではなくマザーを捉えていた。
姿勢を低くして、獲物に飛びかかろうと構えの態勢を取っている。
(――守らなくちゃ)
そう思った途端、私の身体は動き出した。
黒犬に背を向けて駆け出すと、背後の黒犬が動き出す気配がした。
「マザー伏せて!!!」
黒犬に気づいて驚き固まるマザーに飛びつき、庇うようにして地面に伏せた。黒犬の気配はすぐ後ろまで来ている。
(やられる!!)
ぎゅっとマザーを抱きしめて、背中を襲う衝撃を覚悟した。
「ギャン!!!」
衝撃の代わりに響いたのは黒犬の鳴き声だった。
顔を上げられない私の上で、再び黒犬のうなり声と、刃が空気を裂く音がした。
「そのまま伏せていろ!! 聖霊たち! 二人を守れ!!」
ハルジュ様の声がした。私は固く目を閉じ、震える腕でマザーを抱きしめ続けた。
激しい争いの音がしていたのはわずかな時間で、ほどなく黒犬の甲高い悲鳴と、何かがどさりと倒れる音がした。
「リナリエ! マザー!」
ハルジュ様が駆け寄り、私とマザーを抱き起こした。
「もう大丈夫だ。二人とも怪我はないか?」
「わ、わたしはどこも怪我してません。マザーは……」
マザーを見ると、額に脂汗をかいて顔を苦痛に歪めていた。
「ちょっと足をくじいてしまったみたい……」
「失礼」
ハルジュ様はマザーの足首を確認する。
「腫れているようだ。もしかしたら骨が折れているかもしれない」
「わたしのせいです……マザーに無理に飛びついたから――っ!! ハルジュ様! その腕!!」
マザーの足首を確認していたハルジュ様の腕は、服が裂けて血がにじんでいた。
「はは、油断していたとはいえ情けない。このくらい平気だ」
「そんな訳ないじゃないですか!!」
私はハルジュ様の腕を掴み、袖をまくった。
「いっ……」
ハルジュ様が痛みをこらえるような声を上げたけれど、傷口を見た私はそれどころではなかった。黒犬の爪痕が肘から手首まで深々と肌をえぐっていた。傷口からは血が流れ続けている。
(マザーもハルジュ様も、わたしのせいで怪我をした――!!)
私は迷わず二人同時に癒しの聖術を使った。私の持てる最大出力で治療にあたる。
近くにいる聖霊たちの光がどんどん大きくなっていく。もう二人の姿が光で見えなくなっていたけれど、そんなことは関係なかった。力が二人に流れていくのはわかる。早く治さなければ。
「……エ!リ……エ!!」
(もっと、もっと力を……)
「……リエ、リナリエ……!!」
(まだだ、まだ……!!)
「リナリエ!!」
「ストップストップ!! もう治ったから!!」
「もっと――!! ……え?」
肩を揺さぶられてはっと気がつき聖術を止めると、光に覆われた視界はみるみる晴れていった。
聖霊の光が元どおりの大きさに戻ると、すっかり腕の傷がなくなったハルジュ様が私の肩を掴んでいた。マザーは立ち上がり私の顔を心配そうにのぞき込んでいる。
「マ、マザー……ハルジュ様、大丈夫ですか……?」
「ええ、ええ。あなたの力で元どおりよ。それどころか、今なら空も飛べそうな気分だわ。ありがとうリナリエ」
優しい笑顔でうなずくマザーを確認して、ハルジュ様の顔を見る。
ハルジュ様は私に見えるように怪我をした方の腕を出し、手を開いたり握ったりを繰り返して見せてくれた。
「見てくれ。このとおりまったく問題ない。私も今ならあの十倍の荷物の上に二人を乗せて運んでも、まだお釣りがくるくらい動けそうだ。君のおかげだよ」
笑顔の二人を見て、私は全身の力が抜けて後ろに倒れそうになった。
「ちょ! リナリエ!?」
とっさにハルジュ様が体を支えてくれて、なんとか持ちこたえた。
「よ、よかった……。ごめんなさい。わたしのせいで二人とも怪我させて……」
「君のせいじゃない、すぐに気づけなかった私が悪い」
「そんなの、わたしがすぐ声を上げなかったから……」
「いや、元はと言えば私が二人から離れていたのが……」
「はいそこまで。そんなにぴったりくっついて、仲良しなのはわかったわ。薬草も十分集まったし、そろそろ戻って体を休めましょう」
(ぴったり……?)
我に返って自分の体勢を見た。
ハルジュ様に片腕で抱きかかえられるようにして、私は私でハルジュ様にしっかりとしがみついている。
そして至近距離にハルジュ様のご尊顔が……
「わあぁ!!」
「すまないっ!!」
大慌てでハルジュ様から離れ、ゆだるように熱くなった顔を覆っていると、マザーが「あらまあ、うふふ。若いっていいわねぇ」と楽しげに笑った。
結局、ハルジュ様がどうしてもと譲らなかったので、マザーと私は大量の荷物と一緒に荷車に乗って修道院に戻ることになった。
先ほどの言葉どおり軽々と荷車を引くハルジュ様の後ろ姿に向かって「ハルジュ様……助けてくれてありがとうございました」と言うと、「君が無事で本当によかった」と前を向いたまま返事を返してくれた。
私たちがその場を離れたあと、この場所では驚くべきことが起きていたのだと、のちにそこを通ったハルジュ様から聞くことになるのだけれど……それはもうしばらく先の話だ。




