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第9話 聖女、効率の前に信仰を捨てる

死の森の朝。本来なら絶望と血の匂いが支配するはずのその場所は、清々しい小鳥のさえずりと朝露の輝きに満ちていた。

石造りのヴィラのテラス。純白のテーブルクロスの上に、湯気を立てる琥珀色のコンソメスープが置かれる。


「……ありえませんわ。こんなこと」


王国の『慈愛の聖女』リリィは、目の下の隈をヒクヒクと痙攣させながら、震える手でスプーンを握りしめていた。

彼女の横では、かつて王国の誇る聖騎士であったフィオナが、もはや完全に悟りを開いた顔でオムレツを優雅に口に運んでいる。


無理もない。王都からこの死の森まで、休む間もなく馬車を飛ばしてきたのだ。聖女としての激務に加え、強行軍による極度の睡眠不足。リリィの肉体も精神も、とうの昔に限界を突破していた。

しかし、目の前のスープから漂う香りを嗅いだ瞬間、彼女の細胞が強烈に「これ」を欲した。


「カイル様。このスープ、一口飲んだだけで私の内にあった『穢れ』が消滅しました。教会の奥義である『大浄化グランド・クレンジング』を、一度に百回重ね掛けしたような純度です」


「ただのデトックスだ。昨日採取した名もなき野草とオークの骨から取った出汁に過ぎない。ただ、君は王都からの長旅と過労で相当参っていただろう。そのままでは事務的な会話すらままならない。だから、効率的に疲労を抜くために、具材の栄養素を【即時吸収・完全浄化】に再定義しただけだ」


俺は手元の帳簿にペンを走らせる。

他国との外交を担う使者が体調不良で倒れられては、今後のスケジュールに重大な遅延が生じる。それは非効率の極みだ。


「デトックス……? 神の奇跡を、まるで帳簿の数字を書き換えるように……っ!」


リリィが再びスープを口に含む。

直後、彼女の背後に物理的な後光が差した。黄金のオーラが弾け、彼女の身体を重く覆っていた疲労の気配が一瞬にして塵となって消え去る。


「ああ、神よ! 私がこれまで一生を捧げてきた厳しい修行は何だったのでしょうか……! 泥水をすすり、茨の道を歩んだあの苦行の日々よりも、この一杯のスープの方が、ずっと深く私を救ってくださる……!」


リリィはスプーンを持ったまま天を仰ぎ、両目から滝のように涙を流し始めた。


「リリィさん、カイル様の『効率』に理屈を求めたら負けですわよ。考えるだけ無駄です」


エルフの賢者エルナが、焼きたてのパンを齧りながら冷めた声で忠告する。しかし、狂信の扉を開きかけたリリィにはその言葉すら届かない。

リリィはガタッと立ち上がると、俺の前に勢いよく跪き、床に額を擦り付けんばかりの勢いで頭を下げた。


「カイル様! お願いです、私の『聖杖』も見ていただけませんか!? 王国建国の祖から伝わる至宝ですが、最近どうにも魔力の伝導率が悪くて……私では十分な奇跡を引き出せないのです!」


差し出されたのは、複雑な細工が施された黄金の杖。

俺はその杖を受け取り、内部の魔力回路を透視する。


「……ひどいな。内部術式が完全にスパゲッティ状態だ」


「す、すぱげってぃ?」


「前の持ち主たち――歴代の聖女たちの『祈り』だの『想い』だのが、不要なログファイルとして溜まりすぎている。それがメインの魔力回路を強烈に圧迫し、処理を渋滞させているんだ。ただでさえ古いOSなのに、これでは起動するだけで一苦労だろう」


俺は片手で杖を握り、もう片方の手で空中に概念のインターフェースを引き出す。


「歴代の想いを否定する気はないが、実用性が伴わない感傷はただのノイズだ。不要なデータは削除し、バイパスを真っ直ぐに繋ぎ直すぞ」


【定義変更:聖杖内部の構造を『超伝導・高効率魔力回路』に再構成。純粋な出力機能のみを抽出】


カチリ、と。

世界が小さな、しかし決定的な音を立てて書き換わる。

黄金の杖は眩い光を放ち、ごちゃごちゃとした無駄な装飾が削ぎ落とされ、より洗練された、鋭く美しいフォルムへと「整理」された。


「……あ」


杖を受け取ったリリィが、息を呑む。


「試しに、軽く撃ってみろ」


「は、はい。……光よ」


リリィが杖を一振りし、本当にただの小さな照明魔法を使う感覚で呟いた。


――ドゴォォォォォォォォォンッ!!


死の森の上空を覆っていた分厚い瘴気の雲が、凄まじい衝撃波と共に吹き飛んだ。

杖の先端から放たれた極太の光の柱が天を貫き、宇宙の彼方まで届かんばかりの勢いで空間を焼き尽くしていく。その余波だけで、周囲の大地が大きく揺れ動いた。

教会の歴史上、数人の大聖女しか成し遂げていないという最高位魔法『神罰の光』。それが、無詠唱、無反動で、いともたやすく放たれたのだ。


横で見ていたエルナが、持っていたパンを落として硬直している。魔導の神髄を無視した今のデタラメな挙動は、天才エルフの彼女から見ても完全に『世界のバグ』であった。


静寂が戻ったテラスで、リリィはポカンと口を開けたまま空を見上げていた。


「カイル様」


「なんだ」


「私、王国に帰るのをやめます」


リリィはくるりと振り返り、熱に浮かされたような瞳で俺を真っ直ぐに見つめた。


「あんな非効率の極みのような場所で、形ばかりの祈りを捧げている場合ではありません! ここで、カイル様の『効率』を世界に広めるための巫女として、一生お仕えいたします!」


「おい、聖女様が壊れたぞ」


ソファでゴロゴロしていた竜族の王女アイリスが、呆れたように尻尾を揺らす。

困った。

俺としては、王国との平和的な通商条約を結ぶための窓口として、彼女にはさっさと帰って事務手続きを進めてほしかったのだが。これでは一番厄介な狂信者を抱え込んでしまったことになる。


「ご主人様」


ふいに、庭の木陰から獣人の少女ルナが姿を現した。彼女のピンと立った獣耳が、ピクリと不穏な音を捉えて動く。


「森の境界線に、多数の侵入者。百を超える魔力反応です。おそらく、王国の魔導師団かと」


「……聖女が帰ってこないから、痺れを切らして実力行使に出たか」


俺は手に持っていたペンを置き、ゆっくりと立ち上がった。

視線の先、森の入り口付近で、木々を焼き払おうとする粗暴な魔力の気配が立ち昇っている。

無駄な魔力の使い方だ。あんな燃費の悪い魔法陣を展開していては、すぐに息切れするだろう。


ふと、脳裏に一つの事実がよぎる。

『書類整理だけの無能な事務員』と侮り、俺をパーティから、そしてギルドから放逐した者たちのことだ。


ギルドの連中は、俺が裏でどれだけの「処理」を行っていたか、一切理解していなかった。

クエストの受注ルートの最適化、持ち帰った素材の価値を跳ね上げる定義付け、そしてガラクタ同然の彼らの装備を第一級品として機能させていた「メンテナンス」。

俺の【概念改変】による裏方の事務処理があって初めて、彼らは『一流』の顔ができていたのだ。

それを、奴らは嘲笑と共に切り捨てた。

「自分たちの実力だ」と勘違いしたまま。


今頃、俺という安全装置を失った連中は、依頼の連続失敗と資金繰りの悪化で地獄を見ている頃だろう。全ては自業自得だ。


ギルドはまだ知らない。

ただのゴミとして投げ捨てたはずの男が、今やこうして王国の至宝を書き換え、最高位の聖女を心酔させ、世界の理を――神話そのものを、鮮やかに『リライト』し始めているということに。


「エルナ、フィオナ。来客対応だ。……手早く片付けるぞ。昼食の準備が遅れるのは非効率だからな」


俺は三人のヒロインと、すっかり俺の信者と化した聖女を引き連れ、森の境界へと歩みを進めた。

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