第18話 出立の前
――手紙を読み終えたアルヴィスは、その場に立ち尽くした。
僕は、そろそろ――
そう口にしかけて、言葉は喉の奥でほどけていた。
自分は、何のためにこの森へ来たのか。
帰る場所がなく、誰にも迷惑をかけたくなくて、ただ足の向くままに進んだ。
その果てで、シリルに拾われたのだ。
わずか三夜。
それでも、小屋に満ちる火の匂いも、そっけない声も、すでに自分の内側へ深く沈み込んでいた。
ふと、この先どうすべきかを考えた。思い浮かんだ選択肢は三つ。
このままここに残る。だが、いずれ捜索隊は近づいてくるだろう。
たとえエルフですら容易に踏み入らない森だとしても、万が一はある。森の奥にあるこの小屋まで来ないとは限らない。捜索隊が森で命の危険にさらされるのを見るのもつらい。
森を離れ、誰の目にも触れぬ場所を求めて進む。その場合、見つかるのはシリルだけになる。何を問われるのだろうか。
捜索隊のいる方へ向かう。それならば、痛むのは自分だけで済む。
シリルの存在も、ここでの出来事も、すべて伏せておける。
アルヴィスは、捜索隊のいる方へ向かうことを選んだ。
「僕は、国へ帰る」
あまりにもあっさりと、言葉は口をついた。
胸は痛んだ。
けれど、これは自分で選んだことだった。
シリルは、すぐには答えなかった。ただ、手紙を握るアルヴィスの指先を見つめているだけだ。
「……そうか」
短い返事だった。
「気をつけて帰れ」
それだけの言葉が、妙に重く響いた。
この数日で、命を拾われ、知らなかった過去を知り、温かな食事を口にし、火のそばで眠り、地下に眠る古い秘密を見た。
それだけで十分だと、自分に言い聞かせた。
なのに、シリルの声はいつもよりわずかに低く、棚へ向かう背中も、どこか細く見えた。
「……お前の服だ」
シリルは棚の扉を開け、丁寧に畳まれた衣服を取り出した。
この森へ来たとき、身につけていたものだ。
泥と水にまみれ、肌に貼りついていたはずの布は、すっかり洗われている。
深い皺こそ残っていたが、袖口も襟もきちんと整えられていた。
アルヴィスはそれを受け取り、しばし見下ろす。
自分のものであるはずなのに、どこか他人の衣のように思えた。
この服を着ていた頃、自分は何も持っていなかった。
王都から逃れ、森に迷い込み、ただ消え去る場所を探していた。
今は違う。
帰る場所が欲しくなったわけではない。
戻れば、再び苦しみに向き合うことも分かっている。
それでも、ここに留まればシリルを巻き込む。
逃げれば、シリルを置き去りにする。
だから――責任を取るために、これ以上逃げずに王都へ戻るしかなかった。
「着替えてくる」
「ああ」
それ以上、シリルは何も言わなかった。
アルヴィスは寝室へ入り、扉を半ばだけ閉める。
衣を脱ぐと、小屋の空気が肌に触れた。
炉の熱が、まだわずかに残っている。
乾いた布に袖を通すと、かすかに薪の匂いがした。
――シリルが、乾かしてくれた匂いだ。
袖を整え、襟元に指をかける。
それだけの仕草なのに、森へ来る前の自分へと引き戻されるようで、息が詰まる。
それでも、着替えは終わった。
寝室を出ると、シリルは扉の傍らに立っていた。
いつものように腕を組み、壁に背を預けている。
だが、その視線だけは窓の外へ向けられていた。
「……やはり似合うな」
「元々、僕の服だよ」
「そうだったな」
短いやり取りだった。
それでも、アルヴィスはわずかに笑みを浮かべる。
シリルもまた、ほんの少しだけ目を伏せた。
沈黙が落ちる。静寂の中、炉の火が小さく爆ぜる。
「夜に森を動くな」
シリルは窓の外を見たまま言った。外はすっかり暗くなっていた。
「捜索隊より先に、森のものに見つかる。出るなら夜明けだ」
「……うん」
「出口の近くまでは送る」
送る。
その言葉が、思いのほか胸に残った。
アルヴィスは乾いた袖を握りしめる。
明日の朝には、この小屋を出る。
「そういえば」
シリルが、ふと口を開いた。
「お前のちゃんとした名を、聞いていなかったな」
アルヴィスは顔を上げた。
答えようとして、言葉が喉に触れる。
けれど、シリルは先に目を逸らした。
「……いや。明日でいい」
「明日?」
「森を出る前でいい。今聞くと、眠れなくなりそうだ」
冗談のような声だった。
けれど、笑ってはいなかった。
アルヴィスは、名乗るために開きかけた唇を、静かに閉じた。
夜はすでに、小屋の外に満ちていた。




