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第17話 帰るのか


 ――坂のような階段は、緩やかだった。


 地下二階で棺を見終えたアルヴィスは今、シリルの後を追い、階段を登っていた。


 地下一階へ上がるにつれ、肌にまとわりついていた寒気の層が少しずつ薄くなる。


 先ほどの棺について、思考を巡らせる。内側に走る溝。指を近づけた瞬間に灯った光。遅れて聞こえた音。


 あれは、本当に棺だったのだろうか。


 問いたいことは、喉元まで来ていた。だが、前を歩くシリルの背は、何も聞くなと言っているように見えた。


 彼の白く長い髪が一歩ごとに揺れる。赤い鉱石の光を受け、薄く、透き通り、儚い残火のようにゆらめく。


 赤い光が増え、道筋がはっきり見えるようになっていた。


 腕の傷。棺に入った時のこと。目覚めた時、何が起きたのか。


 聞きたいことは、いくつもあった。


 それでも黙って歩き続ける。


 やがて、視界がわずかに開けた。


 地下一階の広間に戻ると、肩の力が抜けた。


 壁際には使われなくなった器具や棚が置かれ、古い木材と金属の匂いが残っている。


 一角に、あの寝台があった。


 地下二階に降りる前に『見るな』と言われた、あの寝台だ。


 金属製の台に、古びた寝具。四隅には錆びた金具が取りつけられ、そこから短い鎖が垂れていた。


 思わず足を止めた。

 

 シリルもまた、そこで足を止めていた。


「今なら、お前に話せる」


 アルヴィスは静かに耳を向ける。


「棺から目覚めた後、俺はここに連れて行かれ、繋がれていたんだ」


 シリルが寝台へと歩き出す。アルヴィスは黙ったまま、後ろに続いて歩く。


「よく覚えていないが、暴れていたそうだ」


 シリルは、錆びた金具を見下ろす。

 その横顔に、長く乾いた疲労が沈んでいる。


 鎖を見た。


 誰かが傷つけるために繋いだのか。

 シリルを守るために繋いだのか。


 どちらにせよ、自由はなかった。


「……怖かった?」


 問いかけてから、少しだけ後悔した。


 踏み込みすぎたかもしれない。


「分からない……」


 短い答えだった。


「棺の中にいた時のことも、目覚めた直後のことも、曖昧だ。ただ、音も光も人の気配も、全てが敵に思えた」


 そう言い、包帯の巻かれた腕に目を落としていた。


「……そう」


 アルヴィスは、それ以上聞かなかった。


 シリルは今、そのことを語るためにここへ戻ったのではない。


 ただ、ここにあったものを、自ら話し、見せたのだ。


 アルヴィスは目を逸らさなかった。鎖も、寝台も、そこに立ち、諦念を秘めた白い横顔も――。


「行くぞ」


 シリルが歩き出した。


 うん、と小さく頷き、後を追った。


 階段を登るたびに、木の匂いが、かすかな草の匂いが混じっていく。


 空気の厚みが戻る。


 階段を登り終え、小屋に着く。


 相変わらず薄暗い。赤い鉱石に照らされた地下とは違う。


 窓の隙間から差し込む光が、床の上に淡く伸びている。


 地上である小屋は、まだ暖かく感じる。


 アルヴィスは、そこでようやく息を吐いた。


 生きている世界の匂いだ。


 そのあと、シリルは黙って湯を沸かした。鍋の底から小さな泡が立ち、やがて白い湯気が上がる。


 卓の上に、温かい飲み物が置かれた。


「飲め」


「ありがとう」


 器を両手で包むと、指先に熱が移った。


 目を閉じて、喉を潤す。

 

 地下で見たものが、まだ瞼の裏側に残っている。本。棺。寝台の鎖。


 アルヴィスは器の中をぼんやりと見つめた。


「シリル」


「何だ」


「――いや、なんでもない」


「そうか」


 口を閉じた。これ以上は聞かず、胸の奥にしまい込んだ。


 湯気が二人の間をゆっくりと昇っていく。


 聞けないことがある。

 答えられないことがある。


 今は同じ卓につき、同じ湯気の向こうに座っているだけで良かった。


 しばらくして、シリルがふと顔を上げた。


「……外に何かある」


 アルヴィスも窓の方を見た。


 小屋の入口の下に、何かが挟まっている。それは、薄い紙片に見える。


 シリルが立ち上がり、扉を開ける。


「差し込んだのは誰だ」


 扉の隙間に挟まれていたのは、折り畳まれた手紙だった。


 シリルは紙を拾い上げ、差し出した。


「ディーからの手紙だ。お前宛てに書いてある」


 手紙を受け取る。紙面には短い文字が並んでいた。


『森の出口付近に、スペクトラヘイムの捜索部隊が見える。王都から来た者たちらしい。気づかれる前に、どうするか決めろ』


 アルヴィスは、手紙を持つ指に力を込めた。


 ――王都。


 その言葉だけで、胸の奥に冷気が流れ込んでくる。


 父の顔。奥殿の白い壁。荒らされた花壇。アルヴィスの身を案じ、探す者たち。


 そして、王都から逃げた事実。


 帰らなければならない。


 視線を上げると、シリルがいる。


 まだ地下の匂いをまとった白い影。棺のある場所から戻り、鎖の付いた寝台の前で、過去の断片を少しだけ渡してくれた男。


「僕は、そろそろ――」


 言いかけて、声が詰まる。


「帰るのか」


 シリルの声は確認の形を取っていたが、どこか底に沈んだ諦めが、アルヴィスの胸を抉った。


 手紙をゆっくりと畳んだ。


 森の外。王都が己を呼んでいる。


 だが、目の前には、まだ闇を背負ったまま立つシリルがいた。


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