第16話 棺
――地下二階。
アルヴィスは歩きながら、思考を巡らせていた。
三冊の本で知ったのは、旧イルファノル州がただ奪われた土地ではなく、記録ごと消されかけた場所だということだった。
薄暗い通路の奥に、シリルが、かつて眠っていたという棺がある。三冊の本を読ませたのは、そこへ連れていくための前置きだったのだろう。
(僕は、シリルの奥の部分まで見る権利があるのだろうか)
今になって葛藤する自分が野暮に感じた。
――ここまで来たら、もう引き返せない。
内面で静かに覚悟を決めた。
赤く光る鉱石は、二人の足元を照らす。先は暗く、背後の道も見えない。行き先を知るのはシリルだけだ。
ただ、この男に付いていくしかない。
あの土地は物理的にベールに包まれていた。王宮の中に詳しい資料は置いていなかった。
「この先だ」
シリルが薄暗い道を迷いなく歩く。アルヴィスは、その白い背を頼りに暗い通路を歩いた。
光の届かない本当の闇が、入り口のように口を開けていた。
「俺に掴まれ」
咄嗟に差し出された手を、迷いなく繋いだ。
不思議だった。ほとんど見えないはずなのに、そこに手があると感じたからだ。直感か、熱を感じたからなのかは分からなかった。
突然、シリルが足を止めた。すると、赤い光が二人の周りをぼんやりと照らしだした。
「――ここだ」
中央に鎮座する石の棺を見て、アルヴィスは息を呑んだ。
「これが……棺」
成人のエルフが二人ほど入る余裕がある、大きな棺。いや、棺と呼んでいいのだろうか。
「……ここで、眠っていたの?」
「ああ」
「誰かに、入れられたの?」
「……違う」
その声は、思ったより静かだった。
「俺が、自分で入った」
シリルは棺を見下ろした。
「あの時は、死にたかったのか、生き延びたかったのか。もう分からなかった」
「……」
「ただ、眠れる場所が欲しかった」
棺の奥は、底のない闇のように黒い。
「誰にも追われず、誰にも見られずに済む場所だ。自分で最期を選びたかった」
「だから、入ったの?」
「……そうだ」
棺の前で、シリルはそう言った。
「身分も後ろ盾もない。ただの平民だ……そのうえ、白く生まれた。夜の民の中では、それだけで目立った」
「……避けられたの?」
「ああ。弱かったからな。不吉だからと、まともな仕事にも就けなかった」
アルヴィスは、何も言わなかった。
「だから、黒い布を身につけて隠した」
小屋の棚に置いてあった暗い色の包帯を思い出す。あれを巻いていたのだろうか。
「どこにいても、すぐ分かる見た目だ」
スペクトラヘイムが敗れ、イルファノル州がラートネク統王国に落ちた時、シリルは本を焼かれる現場を見たという。
「資料が失われれば、何も残らない。記録がなければ最初からなかったことにされる」
「反対する人は……いたの?」
「いた。俺は、火に投げ込まれる本を拾い上げただけだった。それだけで思想犯と呼ばれた」
その後、ラートネク人たちに捕まり、投獄されたのだ。
「捕まってからは名前ではなく、番号で呼ばれるようになった。腕の傷はその時に出来た」
腕を軽くなぞりながら続ける。
「この森に捨てられ、彷徨い歩き、この遺跡に辿り着いた」
「その時、小屋があったの?」
「なかった。遺跡と、この棺だけだ。空のまま、引き寄せられるように入った。蓋が閉じた時、安心した」
「怖くは、なかったの?」
「怖がる力も残っていない。終わるなら、それでよかった」
アルヴィスは棺の内側を覗き込む。黒い石の底に、血管のような細い溝がいくつも走っている。外へ伸びた管は壁の奥に消えていた。
「シリル」
「何だ」
二人の顔が上がる。
「これは、本当に棺なの?」
シリルは答えなかった。
アルヴィスがそっと手を伸ばした瞬間――棺の内側の溝が、かすかに光った。
「――触るな」
シリルの手が素早くアルヴィスの手首を掴んだ。
「こいつの正体は俺でも知らない。下手に触るな」
距離を置くと、白い光はすぐに消えた。遅れて、中から音が聞こえた気がした。
シリルの目が、闇の奥を向く。
「……長居しすぎた」
「シリル?」
「出るぞ、アルヴィス」
シリルは地上へ戻る通路へ歩き始めた。アルヴィスは後を追い、一度だけ振り返った。
赤い鉱石の光の中で、石の棺は静かに二人を見送っているように見えた。




