第15話 保護領初等科歴史読本
――その本は、薄かった。
『イルファノルの暮らし』よりも薄く、子どもの手にも収まりそうな冊子だった。
アルヴィスはそれを手に取った瞬間、嫌な重みを感じた。
表紙には、森も、夜の市も、赤い灯りの窓も描かれていなかった。
かつて、アルヴィスがラートネクを訪れた時に見たような、角ばった石造りの建物が中央に建っている。
見慣れない制服を着た子どもたちが、同じように口を閉じて並んでいた。
その後ろには、旗。
獣の頭部が描かれている。
四本ツノの、横一文字の瞳を持つ獣。
ラートネク統王国の紋章だった。
『保護領初等科歴史読本』
題名の文字は、整っていた。
整いすぎているほどに。
「これも、子ども向けの本?」
アルヴィスが尋ねると、シリルは短く答えた。
「ああ。読まされた本だ」
彼は『懐かしい』とは言わなかった。
二冊の本を読んだ時よりも、声が低くなっていた。
アルヴィスは本に視線を戻す。表紙に指をかけると、薄い紙が乾いた音を立てる。
一頁目をめくる。
明るい教室が描かれていた。
机に座るダークエルフの子どもたち。
黒板の前に立つラートネク人の教師。
窓から差し込む、強い陽光。
その光の中で子どもたちはみな、同じ方を向いていた。
『未来を築く若いスペクターたち』
絵の下に、小さく書かれていた。
「それじゃ、読むね」
シリルが黙って腕を組んだまま頷いたのを見て、アルヴィスは本文を読み上げ始めた。
『スペクターたちは、かつて森の奥に分かれて暮らしていました』
その一文を読んだ瞬間、シリルの体がわずかに震えた。
アルヴィスはすぐに声を止める。
「シリル……?」
一拍ほど沈黙が置かれた後、シリルはアルヴィスに顔を向けた。
「構わない。続けろ」
「わ、わかった」
森の民。
昼の民と夜の民。
さっきまで読んだ本にあった名前は、どこにもない。かわりに、別の言葉がその座にあった。
――スペクター。
幽霊、亡霊などを意味する言葉。
スペクトラ語ではなく、ラートネク語だ。
しかし、ラートネク語の発音らしさがない。まるで、はるか昔からあったような響きだ。
「この呼び方、さっき読んだ二冊の本では見かけなかった」
「保護領に変わってからの本だからな」
「呼び名が変わったんだね」
「そうだ。最初は名前を変えられた」
「最初は……って」
「この続きを読めば分かる」
アルヴィスは、もう一度本へ視線を落とす。
『彼らは独自の言葉、いわゆるスペクター語を用いていました。しかし、地域ごとの差が大きく、互いに正しく意思を通わせることが困難でした』
「シリル、これ……」
「そうだ。スペクター語。あいつらはそう呼ぶ」
スペクトラ語という表記は、どこにもなかった。
アルヴィスは置いていた指を再びなぞり、読み上げる。
『そのため、ラートネク統王国は保護領教育を整え、将来の世界共通語となるラートネク語の普及を進めました。これは、閉ざされた森から出て、文明社会の一員となるために必要な歩みでした』
王都スペクトラガルドでは想像もつかない事態が、この時代にはすでに始まっていたのだ。
「……普及、か」
シリルが小さく笑った。
「綺麗な言葉だな。俺たちは、そう呼ばなかった」
「じゃあ、何て……」
問いかけてから、アルヴィスはすぐに後悔した。
答えを聞く前から、分かってしまった気がした。
「禁止だ」
アルヴィスは息を呑んだ。
教わった歴史と、この本の内容と、シリルの言葉がどれも違っていたからだ。
「……僕は、知らなかった」
そう言ってから、アルヴィスは唇を噛んだ。知らなかったというのは、どこか言い訳のようにも聞こえた。
「知る必要がない場所にいたんだろう」
シリルの声は責めていなかった。だからこそ、痛かった。
「保護領では、今まで使っていた言葉を禁じられた。血を流さずに存在を乗っ取るには、それでいい。俺より若いやつは、すぐ慣れたみたいだがな」
シリルが淡々と話す。
先ほどよりも落ち着いていた。だが、その耳は頭髪に隠れるほどきつく伏せられていた。
「そんな……」
アルヴィスは言葉が詰まった。
まだ、喉の奥に、読んだばかりの言葉が残っている。綺麗な言葉で、否定できない形に整えられているからこそ怖かった。
文章は穏やかだ。その悪意のなさがアルヴィスには精巧に整った鉄の鎖のように見えた。
「森の民、とは書かないんだね」
言ってから、アルヴィスは自分の声が少し震えていることに気づいた。
さっきまで読んでいた本には、森の民だと書かれていた。そこには暮らしがあり、名前があり、誰かが誰かを呼ぶ声があった。
けれど、この本にはない。
「書くわけがない」
シリルは薄く笑う。乾いた自嘲の笑みだ。
「民として数えたら、奪ったものが見えてしまう」
「だから、亡霊と呼ぶのか」
「そうだ。亡霊なら、家を奪っても土地を奪っても、正義は汚れない」
声は静かだった。
アルヴィスは、たった数頁を読んだだけなのに、胸の奥が重かった。
頁はまだ残っている。
白い校舎。ラートネク統王国の旗。その下に、小さな文字。
『砂と森の統一条約により、保護領の平和は守られました』
アルヴィスの指が止まった。
「砂と森の統一条約が、ここで出てくるんだ」
「正式には、ラートネク・スペクター統一条約だ」
その名を、アルヴィスは聞いたことがあった。
王宮の授業でも、会議の記録でも、何度も目にした。
武装の解除。
危険な書物の破棄。
平和を乱した者への刑罰。
どれも、戦後の安定のために必要な措置だと教わった。
――スペクトラヘイムは常備軍を持たない。
平時における武力の保持は、最小限に制限される。その代わりに、スペクトラ予備保安隊がある。
そう教わった時、アルヴィスは疑問に思わなかった。それが当たり前だったからだ。
疑問に思わなかったことが、今さら恥ずかしかった。
軍を持たないはずの国が、なぜ自分のような存在を必要としたのか。
その答えの輪郭が、ようやく見え始めている。
「綺麗な名前だろ」
シリルが言った。
「首輪を花で飾れば、首輪ではないように見える。付けられた者が抵抗しないなら、平和ということにされる。巧いやり方だ」
アルヴィスは何も言えなかった。
自分は、その花の側にいたのかもしれない。
「シリルは……」
そこまで言って、アルヴィスは言葉を探した。
(――そんな時代を生きたんだね)
そう言いかけて、飲み込んだ。
生きた、という言葉だけでは足りない気がした。
「……その中で、ずっと立っていたんだね」
シリルは少しだけ目を細めた。
「倒れないようにしていただけだ」
牙を抜かれ、本を焼かれ、異を唱えるものは捕まった。
そういう時代だった、とシリルは言った。
アルヴィスには、その声が遠く聞こえた。
シリルは少し離れたところに立っていた。
大きく変化した時代の中を、ひとりで立っているように見えた。
手元の本は薄いのに、不思議と重く感じる。
白い紙に整った文章。そこに血はついていない。頁をめくるたびに不安が背筋を這い上がる。
開いていた最後の頁を、アルヴィスはそっと閉じた。
「三冊目、読んだよ」
シリルは少しだけ目を細めた。
「棺を見に行くんだったな」
「うん。約束したから」
「後悔するなよ」
「しないよ」
「覚悟しておけ」
そう言うシリルの声はどこまでも平坦だった。
しかし、その指先がまだ震えているのを、アルヴィスの鋭い視界は逃さなかった。
「――行くぞ」
二人は、地下二階の奥へと進んだ。




