第14話 イルファノルの暮らし
失われた名前の奥には、失われた暮らしがあった。
アルヴィスは『森の民』を閉じ、二冊目の本へ手を伸ばした。
『イルファノルの暮らし』
一冊目より、少し厚い本だった。
表紙には、薄暗い街並みが描かれている。
赤い灯りのともる窓。その奥に、地面の下へ降りる階段があった。
「これは、君の故郷?」
アルヴィスが尋ねると、シリルは目を伏せた。
「イルファノル州。かつて俺たちの故郷だった場所だ」
ただの昔話ではないのだと、アルヴィスは思った。
さっき読んだ本には『夜を知る民』という名が残っていた。
けれど、その名を呼ぶ者は、もう少ない。
ならば、この本に記されている暮らしも、同じように遠ざけられたものなのだろう。
「二冊目、読んでもいい?」
「好きにしろ」
短い返事だった。
アルヴィスは表紙を開いた。
頁には、夜の市が描かれていた。
街灯の下で、布を広げる者。
籠に入った干し魚を選ぶ者。
湯気の立つ椀を両手で抱え、笑っている子どももいる。
街並みの奥には、地面へ続く階段が描かれていた。
アルヴィスは本文を読み上げる。
『イルファノルでは、陽の強い光を避け、夕暮れから朝にかけて街が動きます。子どもたちは夕暮れから学び、夜明け前に眠るのです』
『もっとも賑わうのは、夜の涼しい時間です。市が開かれ、家々の窓には目に強すぎない赤い灯りがともります』
『強い光を嫌う彼らは、地下深くに、もう一つの街並みを広げていました』
アルヴィスは顔を上げた。
「夜と、地下に暮らすための街だったんだね」
思わず、少し息を呑む。
夜は追いやられた場所ではなく、彼らが息をするための場所だったのだ。
「夜に追いやられたんじゃない」
シリルは淡々と言った。
「暗い場所の方が、息をしやすかったんだ」
アルヴィスは、表紙の赤い灯りに目を戻した。
「俺たちにとって、強い光は少し痛い。音も、匂いも、夜の方がほどける」
「だから、この灯りなんだ」
「目に刺さらないように作られていた。昔は、どの家にもあった」
シリルは、挿絵の赤い窓を見ていた。
懐かしむ顔ではない。
もう戻らないものの位置を、確かめている顔だった。
「地下も、街だったの?」
「そうだ。市も、蔵も、祈りの場もあった。もっと奥には、街を動かすための場所もあった」
「街を動かす?」
「水、食料、記録、祈り。そういうものだ。地上より下にあるだけで、あれも街だった」
「今は?」
シリルはしばらく言わず、ただ赤い灯りの挿絵を見ていた。
「どれくらい覚えてるの?」
「少し、な。俺が八つくらいまでは、夜に起きるのが当たり前だった。赤い灯りの下を歩いて、朝が近づくと眠った」
「もっと詳しく聞いても、いい?」
その質問に、シリルは嫌がる様子を見せず、体をアルヴィスに向けた。
「構わない。地上には石造りの家があった。蔵も。特殊な石でできている」
「どんな石なの?」
「緑がかった、荒い石だ。陽の光と熱を通しにくい。夏でも、石蔵の中は少し冷えていた」
「夜の民にぴったりな素材なんだね」
「そうだな。土地がまだ若かった頃、火山の灰と海の底で生まれた石だと聞いた。詳しい理屈は知らん」
シリルは、頁の石の蔵から目を離さなかった。
「今も残っているといいが」
その声は、願いというより確認に近かった。
まるで残っていなければ困ると言い聞かせているようだった。
ラートネクという国がイルファノル州の文化をどう変えてしまったのかをアルヴィスは想像した。
「それから?」
「昼に起きろと言われた。地上で働け。日を浴びろ。地下にこもる暮らしは古くて、不衛生で、遅れていると」
シリルの瞳は挿絵を捉えたまま動かない。
「暗い街は、矯正すべきものだと」
「誰が言ったの?」
「最初に言った奴の名前は知らない」
彼は続けた。
「ラートネク。あの国の主導だ。生活改善。衛生指導。保護領の近代化。そう呼んで俺たちの生活を変えた」
ため息が落ちた。
「地下の入口は、次第に封鎖されていった」
赤い灯りの絵が、遠く見えた。
「スペクトラヘイムが戦争に敗れて、イルファノル州の呼び名が、保護領になってからの話だ」
「全て封鎖されたの?」
「あいつらには見えない隠し場所があるらしい。……俺は、そこへ逃げ込む前に捕まったから、詳しくは知らないが」
「いつか行ってみようよ」
「今はラートネクの土地だ。生きて帰れるかは知らん」
「そっか」
アルヴィスは少し残念そうに俯いた。
それから、部屋の奥へ目を向ける。
本棚の向こう。
冷えた石の床の先。
まだ開けていない通路が、闇の中へ沈んでいる。
「じゃあ、この地下は?」
シリルは、すぐには答えなかった。
「ここは、イルファノルの地下街じゃない」
「違うの?」
「ああ。ここは遺跡だ。街ではない」
「遺跡……」
「俺が目覚めた場所だ」
アルヴィスの指が、頁の上で止まった。
「地下に降りる前に、君が言っていた棺って、もしかして」
「そうだ。ここにある」
シリルは赤い灯りの頁を閉じた。
薄い紙の音が、地下二階に小さく響いた。
「奥に、石の棺がある」
「見に行くの?」
「行く。だが、その前に読んでおいた方がいい本がある」
シリルの視線が、本棚の下へ向いた。
そこには、薄い冊子が一冊、本棚の中で横向きに倒れていた。
『保護領初等科歴史読本』
アルヴィスは、その題名を見た。
さっきまで読んでいた赤い灯りの本とは、まるで温度が違っていた。
「……これを読むの?」
「棺を見る前に読んでおけ。その方がいい」
「分かった」
アルヴィスは『イルファノルの暮らし』を閉じ、三冊目の本へ手を伸ばした。




