第13話 森の民
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熱を吸ったシリルは、血色が戻っていたが、まだ完全には回復しきっていなかった。
アルヴィスは、シリルについて、この世界について知りたいと言う気持ちが込み上げていた。
※本を読む場面が出てきます。
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小屋の中は、まだ冷えていた。
冷気は床ではなく、シリルの寝台を中心に沈んでいる。
それでも、今の方がましになっていた。
シリルの頬には薄く血の色が戻っている。
「……お前、平気なのか?」
シリルが不思議そうに聞く。
「平気。少し腕がひんやりしたけど」
アルヴィスは自分の腕を軽くさすりながら笑う。
シリルは眉を寄せた。安堵ではなく、不審に近い顔だった。
「お前、変な体してるな」
「いやぁ……君に言われるとは思わなかったよ」
シリルは小さく舌打ちした。
「お互い変だろ」
「それもそうだね。とりあえず、まだ休んでて。必要なことがあれば手伝うから」
「いや、もう平気だ」
シリルはもぞもぞと布団の中で体勢を変え、一度軽く伸びをした。
顔色は戻っている。
それでもアルヴィスには、シリルの体がまだ戻りきっていないように見えた。
そのとき、二人のお腹が鳴った。
「起きる。腹が減った」
そう言って、シリルは身を起こそうとしたが、肘が一度だけ寝台に沈む。
「シリル……」
「見るな」
短く吐き捨ててから、ようやく体を起こす。
アルヴィスは、卓の上に置いていた布包みに目をやった。
「そうだ。ディーから預かったものがある」
「ディーが?」
「うん。塩だって」
布包みを差し出すと、シリルはすぐには受け取らなかった。
「……あいつ」
呆れたような声だった。
しかし、拒む声ではなかった。
やがてシリルは布包みを受け取り、指先で中身を確かめた。
「余計なことを」
そう言いながら、シリルは布包みを手放さなかった。
台所へ向かうと、梁から吊るされていた黒い影をひとつ外した。
戻ってきたその手にあったのは、干し肉だった。
「お前も食え」
シリルは干し肉を裂いて、アルヴィスに差し出した。
「僕が?」
「熱を抜かれた後に、何も食べないのはよくない」
「詳しいんだね」
「黙って食え」
「う、うん」
干し肉は硬い。
噛むほどに、塩気と獣の匂いが滲む。
昨夜から体の奥に残っていた冷えが、少しずつほどけていくようだった。
しばらく、二人の間に干し肉を食べる音だけが響く。
アルヴィスが、口を開く。
「食事中だけど、聞いてもいいかな」
「なんだ?」
「シリルが熱を奪うのって、どんな仕組み?」
「そんなことか」
「うん」
「仕組みなんて綺麗なものじゃないが、そうだな――」
シリルは干し肉を噛み切り、少しだけ間を置いた。
「俺の体は、相手の内側にある流れに触れる。血の流れ、魔力の流れ、生命の流れ。そこに境目があると、勝手にほどいて、こちらへ引き込む」
「熱を冷やしてるんじゃないんだね」
「ああ。冷やしているんじゃない。奪った結果、冷えるだけだ」
シリルは自分の指先を見下ろした。
「体温だけじゃない。魔力も、生命力も、俺の体は似たものとして扱う。だから、極端に疲労したときか、魔力が尽きかけたときに暴発する」
「食べる、みたいな感じ?」
「近いな。俺が望んでいるというよりも、飢えた体が、勝手に食らう」
「だから眠ったまま、僕の腕を掴んで離さなかったのか」
「……そうだ」
顔を逸らすシリルの目は、申し訳なさそうに伏せられていた。
「元からの体質?」
「違う。ここに来てからだ。例えるなら……呪いだ」
「呪い?」
「そうだ。俺が棺から目覚めたあと、こんな体になっていた」
「棺、から」
アルヴィスの声が、そこで少しだけ細くなる。
「眠っていたということ? それとも……一度、亡くなった。ということ?」
その言葉にシリルの声が一瞬、詰まった。
「……分からない。ずっと眠っていたのかもしれない。本当に一度死んだのかもしれない。ただ、永遠に眠ることは許されなかったようだが」
シリルは視線を逸らしたまま、吐き捨てるように言った。
「……さっきのことは、忘れろ」
礼でも、謝罪でもなかった。
それでもアルヴィスには、その言葉が体温を奪ったことなのか。棺で目を覚ました話についてなのか。どちらにも聞こえた。
「そこまで気にしてないよ」
アルヴィスは小さく頷いた。
干し肉を食べ終えても、沈黙はすぐには消えなかった。
アルヴィスは指先についた塩を払う。
「シリル」
「なんだ」
「僕は、まだ何も知らない」
シリルの手が止まった。
「ラートネクのことも、君たちのことも。森のことも」
「……知って、どうする」
「分からない。けど、知らないまま君の隣には立てない。もっと世界を知らなきゃって思うんだ」
シリルはしばらく黙っていた。
やがて、起き上がる。
「なら、降りろ」
「どこへ?」
「下だ」
「もう大丈夫なの?」
「ああ。腹が満たせたからな」
部屋の奥の暗がり。アルヴィスがこの小屋に来たときに、ふと気になっていた場所へ向かった。
――
古い石の階段を降りる音が暗闇に響く。
一歩降りるごとに、森の湿気とは違う、冷えた石の匂いがせり上がってきた。
地下一階。赤い光がほのかに照らす空間だった。
小部屋が見える。
「これは?」
「醤油だ」
他にも箱や袋が置いてあり、ここが貯蔵庫であることがわかった。
反対側の部屋には、古いベッドが置いてあった。
「……あれは?」
アルヴィスは、つい視線を向けた。
「見るな」
振り返らないまま答えただけで、問いは閉じられた。
なぜか鎖が四隅についているように見えたが、アルヴィスは言及しなかった。
何に使うのだろうか。
今はまだ、聞いてはいけない気がした。
「今から行くのは、この先だ」
地下一階の最奥には、変色した壁と床があった。
醤油の匂いがある場所までは、まだシリルの生活だった。
だが、最奥の壁に近づくにつれて、その匂いは途切れていった。
地下一階のさらに奥、生活の匂いが途切れた先に、もうひとつ下へ続く道があった。
「ここは、階段じゃない。落ちていくための道だ」
アルヴィスは足元を見た。
石の段は浅く、もはや坂に近い。壁には、何かが長い時間をかけて擦れたような跡が残っていた。
「……君が?」
シリルは答えなかった。ただ、壁に体重をかけるように、ゆっくりと下り始めた。
降りると、冷たい空気の層が出迎えた。
赤い光が各所にある。これも光を放つ鉱石だろう。
地下一階とは違っていた。
貯蔵庫ではない。生活の匂いはなかった。
かわりに、紙と石と、古い血のような鉄の匂いがした。
降りた先の一角だけが、ほかより明るかった。
棚が見える。近くには、赤い鉱石とは別に、白い光を放つ石がいくつか埋め込まれていた。
「ここだけ明るいね」
「たまに使うからな」
その下には、古い机と椅子がある。
ここは、ただ本を保管する場所ではない。読むための場所でもあった。
地下の棚には、三冊の本が残されていた。
一冊目は『森の民』
二冊目は『イルファノルの暮らし』
三冊目は『保護領初等科歴史読本』
アルヴィスは一冊目の『森の民』に手を伸ばした。
「それは、子ども向けの本だ」
背後でシリルが言った。
「なら、僕にはちょうどいい」
シリルは少しだけ目を細めた。
「……笑うなよ」
「笑わない」
「子ども向けだ。だが、今残っている中では、一番ましだ」
アルヴィスは表紙を開いた。
紙は時間の流れを感じさせた。
それでも、書かれている言葉はインクの根を張り、死んでいない。
「……懐かしい本だな」
シリルはそう言ったが、声には懐かしさだけではないものが混じっていた。
「子どもの頃に読んだの?」
「読んだことがある。まだ、そういう本が燃やされる前にな」
アルヴィスは、最初の頁に目を落とした。
「僕たちエルフについての本だね」
そこには、やわらかな線で描かれた森があった。
背の高い木々の間に、耳の長い子どもたちがいる。
肌の色も、髪の色も、目の色も違う。互いに手を取り合っている。
見出しには『わが国スペクトラヘイムについて』と書かれている。
古い書物に書かれた文字は、地下の柔らかな光を受けていた。
アルヴィスは本文を読み上げた。
『――森には、森の民と呼ばれる人々がいました』
『森の民には、昼を歩く民と、夜を知る民がいました』
挿絵の中の森の民が昼と夜、それぞれの背景に分かれて描かれていた。
『昼の民は、陽の下で遠くを見ます。夜の民は、闇の中で小さな音を聞きます』
『どちらも森に生まれた民でした。森の声を聞くことに変わりはありませんでした』
挿絵の細い線が、微かに滲んで見えた。
シリルはその頁を、横から当たり前のように見ている。
『森の昼の民はルトラの血を引き、森の夜の民はイフラの血を引きます』
ルトラ。今でいうハイエルフに近い、古い呼び名だろう。
イフラは、おそらくダークエルフを指している。
『得意なことと、苦手なことがあるため、それぞれ役割分担をして生きていました』
『やがて、昼の民はスペクトラガルドという都市を中心に栄え、夜の民はイルファノルという土地で生活しました』
スペクトラガルド。アルヴィスが生まれ育った王都がある場所だ。
『仲が悪くなったということではありません。それぞれ生活の流れに沿った街を作るためでした。そのため、スペクトラヘイムでは、主に大きな都市が二つあるのです』
「別れたんじゃないんだね」
アルヴィスは小さく呟き、そこで指を止めた。
「……夜を知る民」
シリルは答えなかった。
ただ、赤い光の下で、ひどく古い傷を見つめるような顔をしていた。
「その呼び方は、もう使われていない」
「どうして?」
赤い光が、シリルの白い横顔を静かに照らす。
「使う者が、少なくなった」
それだけ言うと、シリルは本から目を逸らし、腕を組んだ。
アルヴィスは、開いた頁に視線を戻した。
子ども向けの本だった。
けれど、そこには失われた名前が残っていた。
シリルの指先が、机の縁をかすかに掴む。
その白い爪の下に、地下の赤い光が沈んでいた。
登場人物
・アルヴィス
・シリル




