第12話 触れて、受けて
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胸の結び目を一本解かれたアルヴィス。
その一方で、シリルは疲労の果てに眠っていた。
触れた熱が、少しずつ二人の間を変えていく。
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アルヴィスは、寝台の上のシリルを横目に見た。
最初は眠っているのか分からなかった。
しばらくすると、浅い寝息が聞こえてきた。
近づいてはいけないと言われたが、拒絶か遠慮か分からない。ただ、疲れているのだけははっきりと分かった。
一方で、自身の体の調子は良くなっていた。
胸の痛みが落ち着き、呼吸がより深く吸える。体内の魔力の流れが良くなり、感覚が冴えてきている。
まだ完全ではない。けれど、閉じていた身体の奥が、少しずつ開いていくようだった。
ゆっくりと息を吸ってみた。
長い髪に残った森の湿り気と煙の匂いまで、妙にはっきりと分かった。
「……そういえば、浴びてもいいと言っていたね。浴室、借りるよ」
寝台の上のシリルは答えなかった。
浅い寝息だけが、部屋の奥から聞こえてくる。
アルヴィスはしばらく迷ったあと、湯を使うことにした。
湯が肩を流れていく。
以前なら、それだけで息が詰まったかもしれない。胸の奥に絡んだ黒い結び目が、呼吸も、魔力も縛っていた。
今は、温度がはっきりと分かる。皮膚を伝う水の重さが分かる。指先まで血が巡っていくのを感じ取れる。
体が軽い。
その事実に安堵するより先に、罪悪感が込み上げた。
胸の結び目をほどいたシリルが寝込んでしまったこと。
氷のモンスターが出た夜、自分が小屋を出てしまい、シリルに負担をかけたこと。
絶望したからといって、この森に来てシリルに助けられてしまったこと。
「僕がいなければ――」
言いかけて、湯の音に消した。
助けられたからには、恩を返さなければ。
そう思うことにした。
自身を否定すれば、シリルを否定することになる。
それはアルヴィスを望み、生み出した王都にも言えることではないか。
小さな泡のように、思考の中に浮かびあがる。
胸に触れる。
「これでもまだ一本目がほどけただけだったなんて」
自分に言い聞かせる。シリルに救われた事実を噛み締めた。
全身を拭き、借りた服に袖を通す。
体の芯はまだ湯の温度が残っていた。
まずは、この軽くなった体で外に出てみようと思った。
シリルを起こさないように、そっと小屋を出た。
――
外の音が隅々まで聞こえる。森の木々の天井越しに、真上の太陽がかすかに見える。
足の感覚が、妙にはっきりと地を踏み締めている。風が心地よい。
気のせいか。森の木々が陽の光を受けて温まっている場所と、影の冷たさ。その境界線が、肌を通して視えるようだった。
初めての感覚だった。シリルといて、自身がどこか変わったのだろうか。
いや、そんなことはないはず。と、木々の葉に向けていた視線を下に向けた。
昨夜の跡が生々しく残っていた。
氷のモンスターがいた場所は、溶けかけた氷のかけらがいくつか散らばっており、地面にはいくつかの水たまりを描いている。
周りの地面は、雪が一部氷のように固まり、そっと残っていた。
(景色がこんなにも変わっていたとは)
その時、鳥の鳴き声に混じって、人の声がした。
「お、シリルんとこのにいちゃん」
ディーが草陰から現れた。
「ディー」
「おう。元気か?」
陽気な声だ。
「僕は元気だよ」
「そっか。確かに前、会った時よりも顔色が良いな」
「シリルのおかげだよ」
ディーの目が、わずかに細くなった。
「……アイツ、やったのか」
「知っていたの?」
ディーは頭を掻く。
「うーん、そんなに知ってるってほどじゃねえけどよ、そういうのは少し出来るみてえだな」
「そうなんだ」
「アイツは、無理を無理って言わねえ」
ディーは小屋の方角を見て言った。顔から笑顔が消え、真剣な表情に変わる。
「忠告するなら一つだな」
「何?」
「シリルが『近づくな』って言った時は、半分くらい本気だ」
「半分?」
「残り半分は、近づかれたら自分が何するか分かんねえって意味だ。ンまァ、とりあえずそっとしておけよ」
「あ、ありがとう」
ディーは、にやりと笑う。
「んじゃ、シリルにこれを渡してくれ」
小さな布包みだった。ざらざらしたものが入っている。
「……これは?」
「塩。これはシリルでもさすがに取れねえから」
「うん。渡しておく」
「よろしくな」
緑の葉の向こうへ黒い背が消えかけたところで、声だけが戻る。
「また来っからなー」
瞬く間にディーの気配が遠ざかった。
ディーの届け物を手に、アルヴィスは歩いて行った。
小屋に戻ると、空気が変わっていた。
茶の香りはまだ残っている。卓の上の器も、そのままだった。
違うと感じたのは室温。
小屋を出る前よりも、部屋の奥だけが妙に冷えている。
「シリル?」
返事はない。
アルヴィスは一歩、寝台へ近づいた。
床板の音が、やけに大きく聞こえた。
もう一歩近づく。部屋の奥へ入るほど、空気が冷えていく。
シリルは横になったまま、浅く息をしていた。
白い頬から、さらに色が抜けていた。
『近くに来るな』
その言葉を思い出す。しかし、アルヴィスは足を止められなかった。
アルヴィスは、シリルの肩に手を伸ばした。
「ねえ」
触れた瞬間、指先から熱が抜けた。
最初は、冷たいと思っただけだった。
次の息を吸う前に、その冷たさは指の骨の奥へ入り込んだ。
手首を越え、腕の内側を這い上がる。皮膚の表面ではなく、もっと深いところ。
「……っ」
シリルのまぶたが震えた。
眠っているはずの手が、アルヴィスの腕を掴む。
弱い力だった。けれど、離れない。
そのままシリルの胸元に引き込まれる。
振りほどくことはできた。それでもシリルの手を乱暴に外す気にはなれなかった。
――熱が吸われている。
血ではない。魔力でもない。
もっと原始的なもの。
体の奥にある、生きている温度そのものが、白い手の中へ流れていく。
熱が吸われていくたびに、シリルの血色が戻っていく。
ふと、シリルが目を開けた。
「……何をした」
掠れた声だった。
アルヴィスは答えられなかった。
腕にはまだ、白い指の冷たさが残っている。
シリルはアルヴィスの手を離し、体を起こした。
「近づくなと言っただろ」
「君が、寒そうだった」
「だから来るなと言った」
怒りにも似た、低い声の奥にシリルの恐怖を感じた。
「離れろ」
アルヴィスは、少しだけ息を吐いた。
黒い結び目は一本ほどけたはずなのに、胸の奥の別の場所が痛んでいた。
「離れないよ」
「またお前から熱を奪うかもしれない」
「君がひとりで震えているのを見るよりはいい」
その言葉に赤紫の瞳が、わずかに揺れる。
「それに、君が望んで熱を奪ったわけじゃないことくらい、わかるよ」
シリルは目を逸らした。
その手は、わずかに震えていた。
沈黙だけが、部屋の中でゆっくり円を描いていた。
当時人物
・アルヴィス
・シリル
・ディー




