第19話 眠れない夜
エルフの国スペクトラヘイムの王都へ帰ると告げた夜、アルヴィスは準備だけを済ませて眠るつもりだった。
まだ、眠れなかった。
帰るのが怖いのか。それとも、アルヴィスを助けたシリル——白い影の森に棲む、小屋の主との別れを惜しんでいるのか。自分でも分からない。
ふと顔を傾けると、寝台の脇に畳んで置かれた昨夜袖を通した服が見えた。朝になればそれを着て、この小屋を去らなければならない。
今はシリルが貸してくれた寝衣のままだった。布にはまだ炉の熱と、乾いた草の匂いが残っている。
帰国後のことを考えた。考えてしまった。
まずは父に、王宮の者たちに、自分を探していたであろう者たちに、謝らなければならない。その後の扱いは分からない。逃げ出した責任を問われ、叱責で済むのか、隔離されるのか。二度と自由に外へ出られなくなるのか。
考えるだけで胸の奥が冷えていく。ただ、悪い事だけではないはず。
胸の結び目は、まだすべて解けたわけではないが、自分の身体が少しずつ戻ってきている。
ここへ来る前より、魔力の流れをわずかに感じられる。皮膚の下を、温かいものが巡っている。あの時から思考が少しだけ巡るようになった。
森へ入った頃の自分とは違う。ただ消えたかったと、どうすればいいのか分からないまま遠くへ行こうとしていた、あの頃の自分とは違う。そして、自分にしかできないことが見え始めている。
まだ眠気は訪れない。
そんな中、シリルのことが気掛かりだった。
あの人は、ラートネクに奪われたままなのではないか。名も、居場所も、過去も。森の奥で生きながら、どこかこの世にいない者のように扱われ続けている。
報われないままで良いのだろうか。何か力になりたい——そう思った時、アルヴィスは自分の胸に嫌悪を覚えた。
ラートネク国境の、花壇の記憶がよみがえる。あの時も「役に立ちたい」と疑わなかった。けれどそれは、本当に相手の望みだったのか。自分が傷つきたくないから、善意にすがっていただけではなかったのか。
寝衣の胸元を、指先で強く握る。
——その時、隣の部屋から小さな物音が聞こえた。
布の擦れる音。紙をめくる音。木の器を置く音。そして棚の軋む音。
アルヴィスは寝台から身を起こした。扉の隙間から、細い火の明かりが漏れている。シリルはまだ起きていた。
「……それは奥へ。違う、布で包め。音を立てるな」
抑えた声で誰かに命じている。普段より静かで、慎重だ。
見送るだけにしては騒がしい。まるで、何かの準備をしているようだった。
まさか、シリルも森の外へ出るつもりなのか。
わずかに胸が躍ったが、すぐに戸惑いが広がる。共に付いてくれるなら心強い。けれど、外の世界は彼に優しくないかもしれない。死霊術師である彼を、白い肌のダークエルフである彼を、人々はどう受け入れるのだろうか。
今、扉を開けて尋ねるべきか。共に行くのか、と。
口にしてしまえば、それは期待になる。期待は束縛になる。シリルはそれを嫌うだろう。
アルヴィスは寝台に腰を下ろしたまま、寝衣の袖口を軽く掴んだ。この布も、朝になれば返さなければならない。
小屋の静寂の中、何かが少しずつ動いている。
再び、壁の向こうからシリルの声が聞こえた。
「……夜明け前には、終わらせる」
その言葉が耳に残る。アルヴィスは目を閉じたが、隣室の火の明かりが瞼の裏に焼きついて離れない。
物音は夜明け前まで続いていた。
やがて窓の隙間から淡い光が差し込み、陽が昇る。名残惜しさを胸に、迷いを断ち切るように毛布を顎まで引き寄せた。
今度こそ、と静かに目を閉じる。残されたわずかな時間を噛み締めるように。
アルヴィスはようやく眠りの底へ落ちていった。




