第10話 ⚠︎ 蹂躙
やや暴力的な描写を含みます
◆◇
真夜中。アルヴィスが眠りに落ちた頃。
薄暗い小屋の中で、シリルの内側だけは、まだ血の臭いを帯びた戦場にあった。
濡れた布、血が付着している短剣、床に残る水、動かない骨の守衛。
「考えるな」
自らに命じる声は、枯れ果てたまま室内に響く。
隣室より、アルヴィスの浅く細い寝息が漏れ聞こえる。儚い、生者の証。
それを確かめてから、瞼を閉ざした。
赤黒く飛び散る残光が灼きつき、閉じたはずの視界から離れない。
短剣の血か。床に残った水か。
それとも、遙か昔に吞み込んだ炎の色か。
考えるな。と、再び念じた。
無意識は、その祈りを聞き入れはしなかった。
眠りの深淵でさえも。
――
夢は、腐敗した記憶を容赦なく掘り返す。
『あの子、肌が白いわね』
『拾い子かしら』
『ここで生まれた子なら、不吉だわ』
道ゆく人々が耳打ちする。
他者の僅かな声のはずが、シリルの耳には鮮烈に刻み込まれていた。
見覚えある広場。シリルの故郷。イルファノル州。
かつて、エルフの国、スペクトラヘイムを支えていたダークエルフの土地。
敵国との戦に敗れ、その名は塗り潰され、代わりに保護領と名付けられた。
それは綺麗な表面を偽っただけだ。まるで奪った側が丁寧に嘲笑うために付けた呼称にも聞こえた。
広場に並ぶ、夜の民の児童。
彼等の視線の先に立つのは、ラートネク人の教師のみ。
夜の民の教師は、一人も見当たらない。
全員、夜明け前に連れ去られた。と、誰かが囁いていた。
その声を聞いた者たちは何も聞かなかったように俯いていた。
――教室。
授業内容は日を追うごとに劣化していく。
教科書の大部分は墨で塗り潰され、残るは単純な言葉のみ。
消された上から朱墨で『エルフの国は間違っていた』と書き加えられた。
やがて配給された新たな教科書は薄く、従来の半分以下まで削がれていた。
隣の子の肩が、ほっと緩むのが見えた。
(学ぶことが減ったのに、みんな嬉しそう……)
そのことに気づいたシリルは、初めて背筋が冷えた。
ただ覚えるためだけの学びは思考の余地を与えない。その空白に、隙間に――誰かの意図が入り込む余地を与える。
楽になったのではない。奪われたことに、気づけなくなっただけだ。
保護領になってからの授業は、退屈極まりない。
「この問題は前提が破綻しています」
「定義は何ですか?」
当然の疑問を口にするたび、シリルの点数は下がった。理由は、授業の空気を乱したから。
思索すること自体が罪とされた。その結果、めでたく「劣等生」の烙印を拝領した。
ラートネク人教師の指導に従順でいることだけが「優秀な子」として褒め讃えられた。
授業はもう、問題を解かせるためのものではなかった。正解とされた言葉を、間違えずに言えるかを確認する時間になっていた。
シリルが唇を噛んでいると、教師が一歩前へ出た。片手には、細い鞭が握られている。それを見て、子供たちの背筋が一斉に伸びた。
「本日より、すべてラートネク語で過ごしてもらいます」
子供たちのざわめきが広がった。
『そんな……』
『その言葉もダメだろ』
『おい、君だって――』
教師が手を上げると、広場が凍りついた。
「スペクター語は禁止です。使った者は成績を下げ、罰を与えます」
後ろの列で、誰かが小さく息を詰めた。
シリルは思わず拳を握りしめる。
「俺たちの言葉を奪うな」
つぶやきが、静寂を突き破る。
教師がゆっくりと振り返り、冷たい微笑みを浮かべた。
「何か言いましたか。スペクター語は禁止ですよ」
「俺たちの言語を、その名で呼ぶな」
「分かりませんね。ラートネク語で話しなさい」
舌打ちし、ラートネク語に切り替えた。
「なぜだ。そんなに俺たちの文化が気に入らないのか?」
教師は笑顔のまま答える。
「覚えなさい、シリル。君たちの歴史は、間違っていたんです」
「誰が決めた」
教師の目が細くなる。優しげな笑みが、わずかに歪んだ。
「正しい国です」
「なら、その正しさは誰が決めた」
一瞬の沈黙。
教師は穏やかな声で、しかしはっきりと言った。
「反抗的ですね。そういう問いを持つ子は、矯正しなければなりません」
次の瞬間、子供たちは消えていた。
――『保護領管理棟』裏の敷地内。
累々と築かれた書物の山。
それらはすべて、夜の民の叡智を記した歴史書であった。
手前の看板には『禁書はこちら』と記されている。
ラートネク人たちは、声もなく本に火をつけていく。黒煙と業火が螺旋を描き、空へ昇る。
人の腕が飛び出していた。焦げ爛れて、指がゆっくりと閉じていく。
焼かれゆく命を一冊ずつ数えるように。
やがて、炭化した腕の裂け目から滲んだものが灰と混ざり、黒くこぼれ落ちた。
シリルは目を背けられなかった。
燃えるのを止めたい。
巻き込まれ、自身も焼かれる前に逃げたい。
どちらも正解だ。
せめぎ合う衝動の狭間で四肢は動かず、ただ見続けるしかなかった。
「――やめろ」
声を出した瞬間、世界が軋んだ。
『いたぞ。白い肌のスペクターだ』
『思想犯を捕縛しろ』
『叛逆の芽を摘め!』
追手の靴音が、耳の奥で増えていく。
世界が捩れる。足場が消え、闇の中へ落ちていく。
――
『――囚人番号、四百四番。再教育を開始する』
忌まわしきラートネク人の声。鎖の軋む音。
落ちた先は、幾度となく彼を傷つけた鉄格子の内側。
シリルの手足は鎖に拘束されている。身に纏うのは衣服とも呼べぬ粗悪な布きれ。
――四百四番。
その番号を呼ばれるたび、胸が抉れるように痛む。
体を縛られたまま、尋問官を睨み据える。
怖くないわけではない。ただ、鎖の音だけで、あの靴音だけで、痛みを思い出し震える。
それでも、考えることだけはやめなかった。考えることをやめた瞬間、彼らの言葉で己を塗り替えることになるからだ。
それだけは、死よりも忌まわしかった。
「なぜ言葉を奪った。なぜ本を燃やした」
シリルは反抗を続けていた。
「危険思想だからに決まっているだろう」
尋問官の拳がみぞおちにめり込む。
「……ッ!」
赤黒い血塊が逆流し、口から溢れ出す。
中に、焼かれたはずの書物の灰が混じり、浮かんでいた。思わず血混じりの唾を吐き捨てた。
尋問官はシリルを見下ろす。
「この教育で改心しないなら、次は処分だ」
歯を食いしばると、口腔に血の味が広がっていく。
「お前らの言いなりにはならない」
その言葉に尋問官が嘲笑う。
「自覚しろ。劣等種族、スペクター」
その言葉に、シリルは顔を上げ、血まみれの口で笑った。
「その劣等種族の言葉を奪うために、そこまで腐った真似をするのか。お前らの国は、随分と脆く臆病なんだな」
尋問官の笑みが崩れ歪んだ。
シリルは続ける。
「本当に劣っているなら放っておけばいい。消さなければ勝てない時点で、お前らの国は敗北している」
尋問官が刃を手に取る。
「危険分子は存在してはいけないんだよ。だから消すんだ。なあ、四百四番――」
――刃が、腕に触れた。
熱と、皮膚の下で何かが裂ける感覚が走る。
床に何かが飛び散る音がする。
腕が、遠くに飛んだ気がした。
決して、それを見なかった。見れば、起きた惨状を認めるからだ。
シリルは蹲り、息を荒げた。苦痛に歪む声を、必死で押し殺した。
尋問官は刃を伝う赤を見つめ、哄笑した。
「どんな卑劣な手を使おうと、勝てば賢さの証。外から見えなければ、それが正義だ。歴史を書くのは常に勝者……そうだろう?」
シリルは答えなかった。答えられなかった。
荒げる呼気と、絶え間なく床を叩く血の音の中、視界が暗転した。
――
瞼を開くと、視界を満たしたのは昏い森。鬱蒼とした樹冠が広がっている。
――白い影の棲む森。
荷台から投げ捨てられたのだろう。轍の音が聞こえる。顔を上げると、馬車が霧の向こうへ消えていくのが見えた。
処刑は免れたが、流罪となった。
両腕は繋がっていたが指先はうまく動かず、腕は悍ましく腫脹していた。
どれほどの時間を彷徨ったのか。肌をかすめる寒さだけが、時間の経過を告げていた。
視界が白く霧散していく。
――瞬きを経た次の瞬間、既視感のある仄暗い地下の中にいた。
目前には、石棺。
その中に誰かが横たわっている。
白い肌。白銀の髪。骸と見紛う痩躯。
それが己の姿だと、遅れて気づく。
濁りきった赤黒い液体が棺を満たす。溢れんばかりに、視界が、意識が、血の海に沈んだ。
――冷えた空気が頬を撫でる。
意識が現実に引き戻されていた。
寝床の上。ゆっくりと目を開けた。
シリルは、ふと自分の腕を見た。血は一滴も出ていない。
夢に出てきた記憶の中の時間は、永遠に止まったままだ。あの陰惨な尋問室も、魂を削る尋問官の声音も。
隣の部屋は、変わらずアルヴィスの寝息が聞こえる。浅く、細い。生きている者の音。
耳を澄ませると、不思議と胸のざわめきが鎮まる。
再び目を閉じた。眠れるかどうかは、分からなかった。ただ隣室には、まだ生きている者の音がある。
それだけを確かめると、意識は夜の底に沈んでいった。
登場人物
・アルヴィス(睡眠中)
・シリル/四百四番
・ラートネク人教師
・ラートネク人看守




