第9話:天空からの杭、指先の狂気
第9話:天空からの杭、指先の狂気
「ワンセットマッチ、アイザック・リザーブ。プレイ!」
審判の無機質な電子音が、地上二百メートル、スカイハイ・シティの頂点に鳴り響いた。
直後、駆の視界から「球」という概念が消失した。
バシュゥ、と空気を切り裂く高周波の音。続いて、鼓膜を直接叩くような破裂音。
アイザックの放った第一サーブは、二メートルを超える長身から放たれる圧倒的な落差によって、テニスコートを垂直に貫く「杭」と化した。
(速すぎる……ッ!)
駆の反射神経が警報を鳴らす。だが、肉体が反応するより先に、黄色い残像は駆の足元で爆ぜた。
バウンドしたボールは上昇気流に乗り、駆の背丈を軽々と越えて防風ネットに突き刺さる。
「エース。フィフティーン・ラブ」
アイザックは表情ひとつ変えない。その瞳には熱もなく、ただ作業の進捗を確認する職人のような冷徹さだけが宿っていた。
「オーゥ、マイ……! カケール、信じられない角度だ! まるでビルからピアノを落とされたような重圧だよ!」
コートサイド。先ほどまで高所恐怖症で震えていたリチャードが、恐怖を忘れて戦慄していた。彼は震える手で、ポケットから取り出した「ガリ」の残りを口に放り込む。
「あの打点は、テニスの物理法則を書き換えてしまう。カケール、まともに受けようとしたら腕がもげるネ!」
駆は返事をしなかった。いや、できなかった。
肺が焼ける。酸素の薄いこの場所では、呼吸ひとつが針を飲むような苦しみを伴う。
だが、駆の右手は歓喜に震えていた。
(これだ……これだよ。教科書通りの綺麗なテニスじゃ、一生届かない絶望。ケンがあっさりと通り抜けたこの壁を、俺は俺のやり方でブチ壊す)
アイザックが二投目を構える。
駆はラケットを極端に短く持ち、卓球のラケットを握るかのような「指先の感覚」を研ぎ澄ませた。
「無意味だ。君の身長では、私のサーブの軌道には一生触れられない」
アイザックの右腕が、しなる鞭のように振り下ろされた。
一点。アイザックのトスが頂点に達した、その「一瞬」を駆は永遠にまで引き延ばして観察する。
ボールのフェルトが微かに剥がれ、風に震える様子。
アイザックの巨大な影がコートに落とす、黒い断層。
(……見えた)
駆はあえて、ベースラインよりも遥か前方へ踏み込んだ。
ライジングではない。バウンドの衝撃が最大に達する前に、その「点」を強奪する——
ガッ。
「ぐ……うぉぉぉお!」
駆はラケット面を斜めに切り裂くように振り抜いた。
卓球の伝家宝刀の回転理論。ボールの横っ面を削り取り、超高速のサイドスピンを上書きする。
放たれた打球は、アイザックの足元へ向かう途中で不自然な挙動を見せた。
ネットを越えた瞬間、重力に逆らうように右へ、そして急激に「沈む」。
「な……ッ!?」
アイザックの長い脚が、困惑に縺れた。
打球は、アイザックのラケットが届く寸前で、まるで意志を持っているかのように軌道を曲げ、コート外へと逃げていった。
「………………」
静寂。
アイザックが、初めて駆の瞳を見た。
そこには、整然とした論理を嘲笑う、泥臭くも鋭利な「狂気」が渦巻いている。
「……指先で、物理を捻じ曲げたというのか」
「言っただろ、あんたを引きずり下ろすってな」
駆の汗が黄金色の視界を濡らす。
「リチャード……見てろ。これが、あんたが教えてくれた『戦い方』の答えだ!」
「オーゥ……! イエス、カケール! アンビリーバブル! あのアイザックの瞳に、初めて『動揺』という名のデータが書き込まれたネ!」
リチャードは興奮のあまり、握っていたガリをアリーナの床にぶちまけた。
天空の城、スカイハイ・アリーナ。
絶対的な高さを誇る巨塔が、初めて一人の少年の執念によって揺らぎ始めた。
「……いいだろう、少年。君を『迷い人』ではなく、排除すべき『エラー』として認識しよう」
アイザックの纏う空気が、より一層冷たく、鋭利に研ぎ澄まされる。
空から降り注ぐ杭と、地を這う指先の魔球。
命を削るような、高度の死闘が、真の幕を開けた。




