第10話:虚空を砕く魔球
第10話:虚空を砕く魔球
「フィフティーン・オール」
審判のコールが、気圧の低い大気に溶けていく。
アイザックは動かなかった。ただ、自らの足元を、未知の害虫でも見るかのような冷徹な眼差しで見つめている。彼が君臨するこのスカイハイ・シティにおいて、サービスエースを奪えないという事象は、太陽が西から昇るのと同義だった。
「……計算外だ。今の返球、関節の可動域を超えた不自然な捻転。君は自分の肉体を、ただの『道具』としてしか認識していないのか」
アイザックの声には、驚きすら含まれていない。そこにあるのは、完璧に管理されたショールームに持ち込まれた「異物」に対する、生理的な拒絶反応だった。
「道具……? そんな概念はどっちでもいい。俺のテニスは本能と衝動なんだ」
駆はラケットのガットを歯で噛み、微調整する。右手首は、すでに沸騰した鉛を流し込まれたような熱を持って疼いている。骨と腱が擦れるたび、脳髄に直接火花が散るような痛みが走る。
だが、その痛覚こそが、今自分が「生きている」証だった。卓球台という箱庭で培われた狂気的なまでの緻密さが、今、テニスコートという広大な荒野を侵食し始めている。
「カケール! 深呼吸だ、深呼吸! 酸素を頭に回すんだ! 君の瞳が、さっきからヤバい光を放っているヨ!」
コートサイドでリチャードが、ぶちまけたガリを這いつくばって拾い集めながら叫ぶ。
「アイザックのテニスは、精密に組まれた時計仕掛けだ。一度歯車が狂えば、あんな巨体はただの重荷にしかならない! 泥を塗れ! その魔球で、ヤツの純白のドレスを台無しにするんだ!」
「わかってるよ……!」
第二サーブ。アイザックはさらに打点を上げた。
2メートル10センチの頂点から放たれる、角度5度の暴力。
ドォン!
着弾の音が重い。ボールがコートを凹ませるのではないかと思わせるほどの衝撃。
駆は今度は下がらない。むしろ、さらに半歩前へ、死地へと踏み込んだ。
視界がスローモーションに引き延ばされる。
猛烈な回転で歪み、膨張して見える黄色い球体。その表面を覆うフェルトの一本一本が、逆風に逆らって逆立っている。
(捕まえた……!)
駆の指先が、グリップを通じて「震え」を感知する。
手首を固定せず、あえて「遊び」を持たせる。インパクトの瞬間、全神経を右手の親指と人差し指に集中させ、ボールの底をえぐり上げるように、手首を「外」へ弾いた。
卓球のトマホークサーブを応用した、超高密度の下回転と横回転の複合——「魔球リターン・第二式」。
放たれたボールは、ネットを越えた瞬間、まるで透明な壁にぶつかったかのように失速した。
そして、アイザックの鼻先で、驚くべき挙動を見せる。
一度地面に触れたボールが、バウンドした瞬間に「逆方向」——つまり駆のいるネット側へと、生き物のように跳ね返ったのだ。
「……っ!?」
アイザックの長い腕が、虚空を掴んだ。
あまりに落差の激しい回転。あまりに無慈悲な、重力への反逆。
巨躯がバランスを崩し、その膝が初めて、高潔なアリーナの床に屈辱的な音を立てて接触した。
「サーティーン・フィフティーン」
「どうだ……アイザック。あんたの高度なテニス理論に、今の『不条理』は書き込まれてたか?」
駆は肩で息をしながら、挑発的に笑った。
アイザックはゆっくりと立ち上がる。その膝に付いた一筋の塵を、彼はひどく嫌悪するように払った。
「……修正する。君は、排除すべきエラーではない。破壊すべき『汚物』だ」
アイザックの瞳から、無機質な静寂が消えた。
代わりに燃え上がったのは、自らの聖域を汚された者特有の、暗く、冷たい殺意。
「天空に、不確定要素は不要だ」
アイザックがボールを突く。その一打一打が、アリーナ全体を震わせる鼓動のように重く響く。
上空。
スカイハイ・シティを覆う雲が、二人の闘気に引き寄せられるように、渦を巻き始めた。
手首の痛みは、もはや快感に近い。
駆は、剥き出しの「殺気」をラケットに宿し、再び構えた。
「来いよ、巨塔。どっちが先に壊れるか、根比べといこうじゃねぇか」




