第11話:墜ちる巨塔、狂気の終着点
第11話:墜ちる巨塔、狂気の終着点
「フォーティ・サーティ。アイザック、リザーブ」
審判の乾いた声が、ビル風の唸りに掻き消されそうになる。
アイザックの瞳の奥で、青白い炎のようなものが揺らめいていた。完璧に調律された彼の世界において、膝に塵をつけるなどという屈辱は、ただの一度も許されてこなかった。
「認めよう。君の指先には、こちらの論理を狂わせる毒がある」
アイザックは長身をさらに引き伸ばすようにして、高く、眩い太陽の直下へボールを放り上げた。彼の影が、蜘蛛の脚のように長くコートに伸びる。
「だが、毒の量には限界がある。君の手首——腱が悲鳴を上げ、断裂に向かう音が、私には聞こえる」
放たれたサーブは、先ほどまでの「杭」ではない。より冷徹に、より重く、駆の身体の真ん中を打ち抜くボディサーブ。時速200キロを超える鉄塊が、駆の胸元へ容赦なく肉薄する。
(言われなくても……わかってんだよ!)
駆の網膜は、激しい過呼吸によって、すでに黄金色の歪んだ光に満たされていた。
呼吸をするたび、薄い酸素の代わりに針を飲み込んでいるかのように肺が爆ぜる。右手首から前腕にかけては、皮膚の裏側で無数の細いガラス片が暴れているような激痛が走っていた。
普通なら、ラケットを握る指を開くことさえ躊躇う地獄。だが、駆の脳は、その痛みを勝利への「対価」として、貪欲に、官能的にさえ受け入れていた。
「おおおぉぉっ!」
逃げない。駆はあえて胸元へ迫る弾丸に対し、顎を引いて肉体を沈み込ませた。
卓球のショート。ほんの数センチの空間だけで球威を殺し、別の力を上書きする「前陣」の技術だ。
ガッ、と骨の髄を揺らす鈍い衝撃。
駆はその衝撃に狂喜の笑みを浮かべ、インパクトの瞬間に指先を「ねじる」ようにラケット面を操作した。
予備動作は皆無。ただ、ラケットにボールが吸い付いた一瞬の間に、すべてのエネルギーが横回転へと変換された。
シュバァッ! と不気味な高周波を立てて放たれた打球は、ネットを越えた瞬間、アイザックの予測データから完全に逸脱した。
「な……コースが、消えた!?」
アイザックの冷徹な仮面が、今度こそ完全に崩壊した。
フォア側へ来ると踏んで左足を動かした彼の視界の逆、バックサイドの極限の角度へ、ボールは急激に直角に折れたのだ。バウンドした球は、まるで意志を持つ蛇のようにコートの外へと這い出していく。
「ゲーム、アンド、マッチ! ウォンバイ、新卓駆! ゲームカウント、シックス・フォー!」
審判の電子音が響いた瞬間、スカイハイ・シティの絶対強者が、呆然と突っ立ち、ラケットをその場に落とした。
天空の支配者として、一度も揺らぐことのなかった巨塔が、泥臭い少年の指先に、文字通り「完敗」したのだ。
「オゥ……! イエス! カケール、なんて恐ろしいボーイだ!」
コートサイドでは、リチャードが両手を突き上げて歓喜のダンスを踊っていた。
「いやー熱いネ! アイザックの精密な時計を、君の指先が完全に破壊した! これぞワイルド・テニス! 私の目に狂いはなかったヨ!」
「はぁ……はぁ……、勝った、ぞ……」
駆はラケットを握ったまま、コートの床へ大の字に倒れ込んだ。
見上げる空は、青さを取り戻している。
視界の端で、アイザックが静かにこちらを見下ろしていた。その瞳には、もはや侮蔑も殺意もなく、ただ敗北を受け入れた者の、どこか晴れやかな虚無だけが宿っていた。
「……見事だ、少年。君の不条理な狂気が、私の高高度を凌駕した」
アイザックは、懐からエリア・マスターの証である【天空の称号】を取り出し、倒れたままの駆の胸元へそっと置いた。
「だが、忘れるな。次のステージ、深緑の迷宮は、君のような直線的な野性を最も嫌う。霧の中で、己の指先を見失わぬことだ」
そう言い残し、巨塔は静かにコートを去っていった。
「深緑の、迷宮……」
駆は胸の上の称号を握りしめ、歪む視界の中でニヤリと笑った。
右手首の激痛は、引くどころか、さらに深く肉体の奥へと根を張っていく。それがいつか自分を壊す劇薬だと知りながらも、駆の闘志は、まだ見ぬ未知の天敵を求めて、すでに静かに燃え上がっていた。




