第12話:深緑の檻、死んだ指先
第12話:深緑の檻、死んだ指先
「カケール、見てごらんヨ! この霧、まるで最高級の蒸し器の中にいるみたいだネ!」
スカイハイ・シティの乾燥した高空から一転、俺たちの足を踏み入れた『ミスト・フォレスト』は、視界のすべてがミルクに浸したように白く濁る、圧倒的な多雨地帯だった。
コートサイドのベンチに巨体を沈めたリチャードは、なぜか懐から取り出したおにぎりを愛おしそうに眺めながら、べたつく首筋をタオルで拭っている。
「湿度が100パーセントを超えているヨ。これなら、日本で覚えた『シャリの乾燥を防ぐ裏技』を試すまでもないネ。ただ、持ってきた海苔がベショベショになって、おにぎりに絶望的な一体感が生まれているのが唯一の悲劇サ……」
「……リチャード静かにしろ」
俺はラケットを握ったまま、短く息を吐き出した。
吐き出した息が、目の前の濃密な霧にじっとりと溶けていく。
確かに、リチャードの言う通り空気の重さが異常だった。呼吸をするたび、肺胞の隅々まで濡れた真綿を詰め込まれていくような、ぬるい息苦しさがある。
だが、そんな環境の不快感など、今の俺にとってはどうでもよかった。
(……おかしい。打球感が、何も戻ってこない)
ゾクリ、と背筋に冷たいものが走る。
手元でラケットのガットを軽く叩いてみるが、返ってくるのは「ポス、ポス」という、肉塊を叩いたような鈍い手応えだけだった。
極度の湿気。それが、俺のラケットのガットに、容赦なく水分を吸わせていた。限界まで伸びきり、張力を失った糸は、ただの「湿った網」になり果てている。
卓球仕込みの、ミリ単位でボールの回転を操る俺の指先。その皮膚感覚が、ガットの死によって完全に遮断されていた。インパクトの瞬間、ボールがどう歪み、どう回転しているのか、神経を研ぎ澄ましても「何も分からない」のだ。
俺が何よりも信じてきた、俺自身の『感覚』という名の絶対的な錨が、この白い闇の中で音もなく引き抜かれていく。
『新卓 駆:勝率オッズ 1.2倍 ―― メイリン:4.8倍』
『――富豪達による追加ベットシステム作動。環境負荷、フェイズ2へ移行します』
ゴオオ、と地鳴りのような音がして、アリーナの四隅からさらに濃い魔導の霧が噴き出した。
ここはただの試合会場じゃない。富豪たちの欲望の量によってリアルタイムにコート環境が改変される賭博場だ。みるみるうちに、足元のクレーコートが水分を吸って黒く濁り、瑞々しい苔の緑がじわじわと侵食していく。
「お前が、前陣の跳ね返り(ライジング)を得意とする少年か」
霧の奥から、吸い付くような声が響いた。
現れたのは、この深緑の迷宮の主――エリア・マスター、メイリン。
蜘蛛の糸を思わせる、しなやかで強靭な肢体を黒いウェアに包んだ彼女は、冷徹なまでの美貌に、残酷な悦びを湛えた瞳を浮かべていた。
「アイザックを破った指先、見せてもらったわ。だけど、痛々しいわね。ガットは死に、あなたの右手首の腱も、すでに限界を超えてピアノ線みたいに張り詰めているでしょう?」
メイリンは、俺の右手首に巻かれた厳重なテーピングを、ねっとりとした視線で正確にハッキング(分析)してきた。
「あなたのテニスは荒れていればいるほど輝く『イレギュラーの野生』。……でも、ここは泥濘の監獄よ。ボールは弾むことさえ許されない」
ポス。
メイリンが放ったトスからの打球音は、乾いた破裂音ではなかった。
水分を限界まで吸い、まるで鉄球のようになったボールが、ラケットのガットを重く、鈍く押し潰す――「グチャ……」という、不気味な体液を思わせる重低音。
シュルルル、と湿った音を立てて迫る打球は、苔むしたコートにバウンドした瞬間――跳ねなかった。
泥に勢いを吸われ、バウンドせずに「死んで転がる」球。ネット際に、まるで死体を置くかのような、極悪なドロップショット。
(――弾まねえ……! ライジングが使えねえ……!)
卓球仕込みの前陣フットワークで泥を跳ね上げて滑り込みながら、俺は歯を剥き出した。
ボールの芯が分からない。ガットの感覚は死んでいる。おまけに球は跳ねず、地を這うように転がっている。
これを拾うには、死んだガットの代わりに、手首で直接こねて、無理やりボールをすくい上げるしかない。
指先を、感覚を、肉体を、これほどまでに全否定される地獄が、かつてあっただろうか。
恐怖で、前腕の毛穴という毛穴が収縮する。だが、その圧倒的な理不尽の直撃に――僕の網膜の奥で、ドス黒い歓喜が爆ぜた。
「……アハ、ハ……最高じゃねえか、蜘蛛女」
自分の感覚すら信じられないなら、信じるのをやめればいい。ボコボコの庭が通用しないなら、この腐った泥濘を新しい俺の庭にしてやる。
一点集中した瞳に、獲物の息の根を止めるための殺気が宿る。
「いくぞ――ッ!」
俺は狂気の笑みを浮かべ、手首を泥の底へと突き立てるように振り下ろした。




